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自分のことを理解できない理由。誰もがレンズを通して自分を見る

  • 投稿カテゴリー:人が変わる
  • 投稿の最終変更日:2024年9月11日
  • Reading time:8 mins read

私たちは、自分自身の映画の主役であり、人生の主人公です。誰もが自分のレンズを通して世界を見ています。しかし、そのレンズは真実を歪めるものです。私たちは、一生を通して、自分自身と過ごします。誰よりもはるかに長い時間を自分と付き合って人生を送ります。それなのに、私たちは自分自身をよく理解できていません。

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はじめに

スポーツ映画やアクション映画を観るとき、良くも悪くも、私たちは無意識のうちに主人公の味方になっていますね。
ストーリーの展開や見せ方が、見ている人たちを主人公に感情移入させ、主人公やその仲間たちを応援するように作られているからです。それ以外の登場人物やライバルや敵を応援することはあまりありません。主人公を妨害する悪者たちには敵意を抱くことさえあります。

映画は主人公にスポットライトを当て続けます。主人公のレンズを通して、その考え方や経験、状況に対する反応を描いていきます。

ひょっとしたら画面からは憎々しく見える悪者たちも、本当は悪い人たちではなく、何からの正当な理由や避けられない事情があって主人公を妨害しているだけかもしれません。しかし、映画を見ている時、私たちはそのような疑問を抱くこともありません。そのような見方は提示されないからです。

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誰もが自分のレンズを通して見ている

同様に、私たち1人1人も自分のレンズを通して世の中を見ています。
自分自身に大きなスポットライトを当て、自分を中心とした世界を構築します。私たちは、自分自身の映画の主役であり、人生の主人公です。主人公のレンズを通して、周囲の状況を見て、行動しています。

しかし、そのレンズは真実を歪めるものです。そのレンズのために、周りの世界も自分自身も正確に見ることができません。私たちは他人が自分を見るようには自分自身を見ていません。その結果、他人から見る自分と、自分が持つ自分に対するイメージが大きく異なることがあります。

人に対しては、あれはだめだ、それはよくないと言いながら、自分自身はおくびれることもなく、まったく同じような行動を平気で取ったりします。周囲の人たちのほとんどが、言動の矛盾に気が付いているのに、自分自身がまったく気が付いていないこともあります。

私たちは、一生、最初から最後まで自分自身と過ごします。誰よりもはるかに長い時間を自分と付き合って人生を送ります。それなのに、私たちは自分自身をよく理解できていません。

なぜ私たちは他人が見るように自分自身を見ることができないのでしょうか?
今回はその理由を見ていきたいと思います。

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自分を正しく理解できない理由

自分が自分を正確に理解できないのには理由があります。次に紹介するような要因が重なり合っているからです。

1.実際に自分では自分が見えないから

なぜ私たちは自分自身のことがよく見えないのでしょうか?
実は答えはとても簡単です。実際に自分の目には自分の姿が見えないからです。私たちの目には周囲の人たちの姿や行動はよく見えます。しかし、鏡でも使わない限り、自分自身の姿や行動を見ることはできません。たとえ鏡を使っても見える姿はとても限定的です。

よく、自己理解を深めるためには、自己内省の機会を作ることが大切と言われます。自己内省は大切ですが、限界もあります。

自分を客観的に評価することよりも、他人を客観的に評価することの方が簡単です。他人はよく見えるからです。ということは、自分自身を知るためには、他人から自分に対する率直な意見を求めるのが手っ取り早く正確です。

組織の中には、360度フィードバックを導入しているところもありますが、適切に行えば、多くの人たちにさまざまな角度から見てもらって、的を得たフィードバックを受けることができます。
上司、部下、同僚など様々な立場にいるできるだけ多くの人たちにフィードバックしてもらうほど、より効果と精度が上がります。そして、他人が自分をどう見ているか定期的がフィードバックを得ることは、自己認識を高めるのにも役立ちます。フィードバックは、具体的でタイムリー、かつ、性格ではなく行動に焦点を当てる場合がより効果的です。

2.他人の失敗はそいつのせい。自分の失敗は別の何かのせい

私たちは世界を冷静な目で見ていると考えています。自分自身に対しても同じように明晰に見ていると信じています。しかし、実際はそうではありません。

私たちには他人の欠点がはっきりと見えます。そして、他人の問題や失敗をその人の性格や資質に帰属させる傾向にあります。「君がぎこちないから、チームがまとまらなかった」、「君がボールから目を離したから、ボールを取り損ねた」、「君がちゃんと説明しなかったから、みんな間違った解釈をした」などです。

一方で、自分が失敗したときは、自分のせいにはせずに、周囲の状況や他の何かのせいにします。「仲間に恵まれなかったから、チームがまとまらなかった」、「太陽が目に入ったから、ボールを取り損ねた」、「時間がなかったから、みんなにちゃんと説明できず、間違った解釈につながった」などです。

これを行為者・観察者バイアスと言います。他人のことははっきり見えるが、自分自身はよく見えないことに起因するバイアスです。

つまり、私たちは、他人のことはよく見えるため、他人の失敗に対しては他人を責め、逆に自分のことはよく見えないため、自分の失敗を自分以外の状況要因に帰属させる傾向があるのです。
自分のことを正しく知るためには、誰にでもこのバイアスがあることを理解しておく必要があります。

3.自分がいつも正しいと思い込もうとする

私たちは本能として、自分を守ろうとする機能や、自分が正しいと思い込もうとする機能を持っています。

確証バイアスもそのひとつです。
確証バイアスは、自分の既存の信念を裏付ける情報を求め、それに反する情報を軽視するバイアスです。つまり、私たちは、自分に都合の良いように物事を選択したり、現実を歪めて解釈して見る傾向があり、自分は他人より優れていて、賢くて、正しいと信じます。例えば、90パーセントの人たちが、自分の知性とコミュニケーション能力が「平均以上」だと信じているのはこのためです。

確証バイアスは自己評価を歪め、自分自身を正しく理解することを困難にします。

自分自身をより正確に理解するためには、自分の欠点、弱み、間違いを正直に認め、他人が正しければそれを認める必要があります。しかし、多くの人たちはこれが出来ません。自分の欠点、弱み、間違いを正直に認め、人より劣っていると認めることが、とても不快で困難なプロセスだからです。
特に国や社会や組織の「えらい人たち」ほどこれができません。むしろ、自分の弱みや間違いを他人に見せることがまったく出来なくなっていて、虚栄を張っている人たちがほとんどです。

以前も書きましたが、確証バイアスは、さまざまな領域で社会に破壊的な影響を与える、人類が持つ最も危険な認知バイアスです。世の中の多くの争いも確証バイアスが原因の1つで、その結果、数えきれないほどの人命が奪われてさえいます。

4.文化的背景や社会からの期待に縛られるから

文化的背景や社会からの期待も、自分自身を理解することを困難にします。
私たち自身を深く知るためには、自分が生まれ育ってきた環境や文化、周囲の人たちや社会や歴史を理解しなければなりません。知らぬ間にこれらから大きな影響や制約さえ受けており、それらが、自分を深いところで形作っているからです。

自分は社会の一部であり、社会は自分の一部でもあります。自分では自分がよく見えないと書きましたが、自分が所属する文化についてもよく見えていません。それが他の文化とどう違うか気づいていません。
残念ながら、自分の体から抜け出して自分を外から見ることはできませんが、自分がいる社会を抜け出して外から見ることはできます。海外に行くなどして、自分が生まれ育った環境から離れて見ることができます。外から見てみれば、自分がいた社会について、思わぬほど多くを知ることができるでしょう。

5.知ることができる自分には限界があるから

皆さんは自分の行動は自分が決めていると思っているでしょう。しかし、自分の自由意思によって決めている行動はごく僅かです。自分で考えて決めていると思い込んでいる行動でさえも、そのほとんどはその他の数多くの要因によって決められていて、自分の意思が及ぼす影響はごくわずかです。私たちの体の中で起きている活動の多くは自分ではコントロールできないのです。

意思は、自分の一部ではあるものの、全体ではありません。それは、内燃機関が車の一部ではあるが、車全体ではないのと同じです。
どの部分も、全体ではありません。いかなる部分も、その他全てをコントロールできず、しかし、完全に独立しているものでもなく、むしろ相互に影響し合っています。

先ほども書きましたが、内省、つまり自分の考え、感情、行動の原因を振り返って深く考えることは、自己認識を高めると広く考えられています。しかし、内省が必ず自己認識を高めるとは限りません。むしろ、内省する人は自己認識が低く、仕事の満足度と幸福度が低いと報告している研究さえあります。

私たちは、生理的現象や無意識の考え、感情、動機の多くにアクセスできません。意識が及ばない領域で決められているものが多いため、内省によってこれらのことを理解しようとすると、むしろ間違った解釈をしたり、答えを自分に都合の良いようにでっち上げることさえあります。とても多くの人が「自分に都合の良い内省」を行っています。

たとえば、ある従業員に対して大激怒したマネージャーは、色々考えた結果、その従業員には能力がないと結論づけるかもしれません。大激怒の本当の理由は、単に自分の虫の居所が良くなかっただけなのにです。

内省の問題点は、それがまったく効果がないということではなく、ほとんどの人が間違って行っていることにあります。

例えば、なぜあなたが従業員Aより従業員Bを高く評価するのか、その理由が「よく分からない」ことが正解のケースがあります。なぜから、私たちは、無意識の考えや感情や動機の多くにアクセスできないからです。私たちは理由が分からず、ある考えを持ったり、行動を取ることがあるのです。
しかし、しかしこれらの無意識の作用に理由づけしようと無理に考え過ぎると、思考が答えを後付けしたり、もっともらしい答えを間違って導き出す可能性があるのです。結局のところ、「なぜ」という自問は、驚くほど効果のない自己認識の質問にもなり得るのです。

私たちが自分に張り付けるラベルやレッテルも、自分を表しているものではなく、むしろそのラベルに振り回されることがあります。つまり、私たちは自分を「知る」ことによって、実は、別人になってしまうことがあるのです。

6.自分は変化し続けるから

たとえば、あなたが日本以外のある国に住んでいるとします。
そこで、羊やヤギと一緒に農場で暮らし、政治や国際問題について考える必要はまったくない生活を送っています。日々の暮らしがすべてで、政治や国際問題はその生活に何の影響も与えていません。この意味では、完全で充実した人生を送っています。「自分が誰であるか」についてはあまり考えないかもしれません。

しかし、何かが大きく変わる瞬間が訪れます。突然ドアをノックされ、役人から国のために戦うよう招へいされます。この瞬間から、あまり関心のなかった国家が自分の生活を大きく動かす存在になります。そして、国民としての何らかのアイデンティティが芽生えます。

何者でもなかった自分が、突然、自分のアイデンティティの「真実」を受けるのです。この「真実」を受け入れることで、人はそれまでの自分ではない自分に変わります。昨日までは、夜明けから夕暮れまで動物の世話をするとても幸せな農夫でした。しかし、一日にして、まったく異なる自分に変わってしまったのです。

これは極端な例かもしれませんが、似たようなことは私たちの中で頻繁に起きています。つまり、人は絶えず変化し続けるのであり、自分が本当に何者であるかを知ることはないのです。

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さいごに

「自分探し」という言葉があります。個人的にはあまり好きではない言葉です。なぜなら、自分を探す必要はないと思っているからです。

大事なのは自分を探すことではなく、自分を知ることです。
今回書いたように、自分を知ることには限界があります。それでもなお、自分をよりよく知るのです。
自分探しをする前に、なぜ自分を探そうとしているのかを知ってください。外で探そうとするのではなく、内を見るのです。自分自身を支える何らかの芯や軸があるはずです。それはとても細く見えるかもしれません。しかし、その存在に気づけば、それを少しずつ肉付けしていくこともできます。

本当の自己認識は「自分が考える自己認識」よりももっと深いところにあります。観察者として自分を見るのです。自分を客観視できれば、思考や感情の裏側にある、より深い自分を感じることができます。

また、大事なのは、自分を含めて人間がどう機能しているのか、どうやって様々な感情が生まれたり、考えが生まれるのか、その仕組みを知ることです。

車の仕組みを知らないのに、どうやって故障を直すか、どうやったらもっと速く走らせることができるか考えても解決できません。同じように、多くの人たちは、自分の仕組みを知らないのに、自分を無理矢理変えようとして失敗しています。自分がどう機能しているかを理解していないことが、様々な問題の発端になっているのです。

重要なのは、自分という人間の仕組みを知ること、自分がどう機能しているのかを知ることです。

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