米国で5年以上もベストセラーに君臨し続ける書籍「身体はトラウマを記録する」を紹介します。なぜこの本は長く高い関心を引き寄せ続けているのでしょう?それは、トラウマが特定の人たちに限らず、社会のいたるところにあり、私たちに深い影響を及ぼしているからでしょう。実際、多くの社会問題に幼少期のトラウマが関係しているのです。
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はじめに
今日紹介する本は、オランダ生まれの精神科医であり脳科学者であるベッセル・ヴァン・デア・コーク(Bessel van der Kolk、1943 – )が書いた2014年発刊のベストセラー「The Body Keeps the Score : Brain, Mind, and Body in the Healing of Trauma(邦題)身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法」です。
ヴァン・デア・コークは、子どもや大人がトラウマ体験にどのように適応するかを1970年代から研究し、臨床の最前線で長く働き、得られた知見を、トラウマ性ストレスに対するさまざまな治療法の開発に生かしてきました。
国際心的外傷性ストレス研究協会(the International Society for Traumatic Stress Studies)の会長を務めたことがあり、全米児童心的外傷性ストレス ネットワーク(National Child Traumatic Stress Network)の元共同ディレクターでもあります。 ボストン大学の精神医学の教授でもあり、設立に自らが関わったトラウマ研究財団(Trauma Researh Foundation)の理事長でもあります。
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この本、10年も前に書かれたのに、米国ではいまだにベストセラーに君臨し続けています。
ニューヨーク・タイムズのペーパーバック・ノンフィクション部門では、ベスト15リストに287週(約5年半)もランクインしており、2024年5月5日の週ランキングでは、ベスト15どころか第1位です!
また、amazon.comのノンフィクション部門トップ20にも176週ランクインしています。現時点で、74,105もレビューがあって、4.8と評価も高いです。
トラウマという限られた分野での膨大な経験と研究結果を詰め込んだ、ものすごく内容の濃い専門的な本ですが、トラウマ自体は決して新しいものでも一般的なものでもありません。なぜこの本はこれほど長い間、高い関心を引き寄せ、売れ続けているのでしょうか?
ひとつには、あまり良い傾向ではありませんが、私たちの社会にトラウマが広く深く浸透してきていること、そして、その影響がより身近なものとして認識されてきている背景があるでしょう。
グーグルトレンドで本書を調べて見ると、2018 年半ばから本書のトレンドが上昇し始め、そこから増加し続けています。
振り返ってみると、2017年に拡大した#MeToo運動や、ジョージ・フロイド事件を発端にして2020年に全米規模のデモや暴動へと発展した#Black Lives Matter運動は、それぞれ性的トラウマや人種的トラウマを浮き彫りにしました。コロナウイルスのパンデミックや、テクノロジーの急速な発展による人と人の関係の変化も影響しているでしょう。本書は、周囲の人たちや環境が私たちにどれほど深い影響を与えているか、そしてそれがどのように私たちの体の奥底に刻み込まれてしまうかについて、関心が高まっていることを物語っています。
また、本書は膨大な事例やデータを取り上げていて、トラウマを超えて、人間そのものについて深く知るという意味でも、多くの人を引き付けているのかもしれません。
本書が売れている他の理由として、さまざまな医学用語を含んだ専門的かつ内容の詰まった本でありながら、他の専門書にありがちな難解な言い回しや癖のある表現をしておらず、文章自体はストレートで、とても読みやすいことも挙げられるでしょう(なお、私はいつものように英語版だけを読んでいます)。
また、心的外傷後ストレス障害(PTSD : posttraumatic stress disorder)という言葉がまだ存在しない時代から今に至るまで治療と研究に携わり続けてきた長い経緯が分かりやすく圧縮されて説明されていることや、トラウマという概念を広げることに反対する既存勢力や、それまでの理論や治療法を守ろうとする既得権益からの圧力を受けながらも、トラウマに対する新たな認識や治療法を広げるために尽力する著者のストーリーが読み物として純粋に面白いという点もあるでしょう。
数分で読み終わる文章でまとめられるような内容では到底ありませんが、その概要を簡単に紹介しましょう。
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身近なところにあふれるトラウマの影響
当初トラウマの研究や治療の対象は、戦争や災害、その他の不幸によって心に深い傷を負った人たちに限られていました。ヴァン・デア・コーク自身も、キャリア当初は、ベトナム戦争の退役軍人の治療に関わっていました。しかし、ヴァン・デア・コークはトラウマは私たちの社会のいたるところにあると気づいていきます。彼は、振り返ってみると、いかに過去の自分が無知で視野が狭かったかがわかると述べています。トラウマは私たちにもっと身近なものなのです。
特に幼少期における影響は深刻です。ヴァン・デア・コークによると、毎年50万人以上の子どもたちへの虐待やネグレクトが報告されています。アメリカ人の4人に1人が、子どもの頃、殴られた後にあざが残ったと報告し、8人に1人が家庭内暴力を受けており、4分の1がアルコールや薬物中毒の中で育っています。5人に1人が性的虐待を受け、毎年50万人の女性がレイプされ、その半数は青少年になる前に起きています。世界最大規模を誇るアメリカの刑務所は、過去に深刻なトラウマを受けた受刑者を抱え込んでいます。
このような体験は、私たちに深い痕跡を残し、家庭生活や学校や仕事での問題、さまざまな精神疾患や病気など、社会に深刻な影響をもたらします。ヴァン・デア・コークは、小児期のトラウマを「隠れた伝染病」と表現しています。実際、疾病管理予防センター(CDC, the Centers for Disease Control and Prevention)は、小児期のトラウマは、がんや心臓病よりもコストが高い最大の公衆衛生問題であり、早期の予防と介入によって防がなければならないと警鐘しています。
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トラウマを克服するためには
トラウマに関してすべてが解明されているわけではありません。しかし、ヴァン・デア・コークは、特に3つの科学領域の誕生と発展が、知識の拡大に大きく貢献したと言います。それは、
① 脳科学(Neuroscience)
② 発達精神病理学(developmental psychopathology):青少年期の問題体験が心と脳の発達に与える影響を研究する学問
③ 対人神経生物学(interpersonal neurobiology):私たちの行動が周囲の人たちの感情、考え方にどのような影響を与えるかを研究する学問
です。
これらの新しい分野の研究により、トラウマが体内に生理学的変化を引き起こし、意識できる出来事の記憶としてではなく、経験や感覚のまま、感情や身体的感覚を刷り込むことが明らかになりました。つまり、トラウマは生まれながらの特性や意志の弱さや道徳感などではなく、脳の原始的な部分の変化によって私たちの意思とは無関係に引き起こされるのです。
トラウマは私たちの知覚や想像を変えます。想像力は私たちにとても重要な特性です。私たちは想像することなく、未来を変えることができません。トラウマは過去に生きているだけでなく、今に生きていないことであり、トラウマそのものが人生に意味をもたらすアイデンティティとなってしまうことさえあるのです。
トラウマを克服するためには、自分自身を理解すること(self-awereness)が必要です。
しかし、トラウマに苦しむ人たちは「知っていることを知り、感じていることを感じる」ことができません。
自分自身の内側で起きていることを知り、体内機能によって隠されてしまった自分と向き合うために、害された機能を再配線しなければなりません。トラウマが残した痕跡、脳の改変を理解した上で、危険はもう過ぎたことを体に理解してもらい、今の自分自身を取り戻すのです。
そのためには、人が自分と他人に対して心を開き、新たな可能性に取り組むのに十分安全だと感じる必要があります。これは、トラウマをもつ人たちや地域社会が、起こった現実と向き合い、告白し、再び安全だと感じられるように支援されて初めて可能になります。
逆に、自分と向き合うことができないと、体は自分を守り続けるために大量のエネルギーを使い続け、モチベーションを奪い取っていきます。自分の内面と向き合わないことで、自分自身である感覚(sense of self)さえも失っていきます。
すべての人に適合する治療法はありません。ある方法がある種のトラウマには効き、他の種のトラウマには効かないこともあります。しかし、ヴァン・デア・コークは、ほとんどの場合、次の3つのアプローチの組み合わせになると言います。
① トップダウン方式
まずはトップダウン方式とも呼べる方法で、私たちの理性や認知の力を利用していく方法です。具体的には、話すこと、理解すること、人とつながることで、トラウマの記憶を処理しながら、自分に何が起こっているのかを知り、理解できるようにします。 自分をコントロールするためには、自分自身の現実を理解することが必要です。
自己規制(self regulation)は、自分の体と友好的な関係を築くかどうかにかかっています。 それがなければ、薬物やアルコールなどがもたらす安心感、または他人の願望を強制的に受け入れるなどの外部規制に頼り続けなければなりません。
ただし、トラウマは私たちが認知できる領域のさらに奥深くにある感覚的な領域や生存のための領域に影響を及ぼしているため(ホルモンや免疫など)、認知療法には限界があります。トラウマを負った人は、恐怖を知覚する脳領域が活性化しやすく、情報のフィルタリング機能や、身体感覚の知覚に欠損が生じていて、何が危険で、何が安全かも判断できなくなっているため、自分のやり方の間違いに気づくだけでは不十分なのです。
② 医薬品の効果的利用
次は、脳の不適切な警報反応や過剰な身体反応を止める薬を服用することです。あるいは脳が情報を整理する方法を変える技術を利用することです。ただし、後に述べるように「精神疾患は脳内化学物質の不均衡によって引き起こされるため、特定の物質によって治療できる」という理論は危険です。
③ ボトムアップ方式
私たちの生理的機能を活用する方法です。トラウマの一部である無力感や怒りなどと直感的に正反対の経験を体に経験させることで、過去の刻印が変容し、自制心を取り戻すことができます。具体的には、ヨガや太極拳、呼吸法、触れ合い、ダンス、仲間とのリズミカルな関わりなど、医療現場ではあまり活用されていない方法で、生来の能力を活性化させることができます。
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ヴァン・デア・コークはこれらの方法をバランスよく組み合わせることを強調しています。
彼が推奨する多様なその他の治療法のなかには、脳活動をリアルタイムでモニターしながら訓練により変化させることを学ぶニューロフィードバック、身体反応と精神作用を同調させるソマティック心理療法、リズミカルな眼球運動を誘導させてトラウマ体験を思い出すEMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing)などがありますが、彼は間違った治療が横行していること、特に治療薬の乱用についてはとても懸念しています。
米国では現在、10人に1人が抗うつ薬を服用しています。50万人以上の子供たちが抗精神病薬を服用しています。トラウマを双極性障害(Bipolar disorder)や気分調節症(Mood dysregulation disorder)などの他の精神障害と間違えて診断して、薬を処方されるケースも多く、また2歳から5歳への幼児への処方も増えてきています。1歳に満たない赤ちゃんに薬を処方されたケースもありますが、脳の発達への影響に関しては十分研究されていません。
これらの薬は、虐待されたり放置された結果、扱いにくくなった子供たちを「より扱いやすくするために」利用されます。子どもたちの感情をコントロールし、攻撃性をやわらげ、扱いやすくなるメリットがある一方で、ドーパミンを抑制するので、健全な成長に必要な喜びや遊び、学習意欲、好奇心、積極性、モチベーションも軽減してしまいます。また、肥満や糖尿病を発症するリスクもあります。さらに深刻なのは、貧困であればあるほど、行動を抑制するために薬が投与されやすくなることです。
薬はトラウマを治療するものではなく、阻害された生理機能を和らげるだけのものです。ヴァン・デア・コーク自身、薬も利用しますが、薬物療法は根本的な原因には向かい合わず、表面的な問題を抑えるだけです。
特に、ヴァン・デア・コーク自らも普及に関わったSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)に代表される医薬品の開発は、この分野に多額の資金をもたらしました。
精神治療薬の利用は、トラウマを単純に脳疾患と結びつけ、過去30年にわたり、私たちの文化の中心となってきました。
また、トラウマのみならず、私たちは何か調子が悪いと病院に行きます。15分くらいの診療を受けた後、薬を処方されます。これが医療のスタイルとして定着してしまいました。薬には収益力があるため、薬を使わない治療法には資金が集まらなくなりました。
ヨガやマインドフルネスや運動、呼吸を意識すること、リラックスすること、これらを組み合わせることが必要ですが、このような非薬物療法や心理療法を取り入れる開業医は通常「代替治療」として疎外されてしまうのです。
※ 下のYoutubeで、ヴァン・デア・コーク自身の説明を聞くことができます。
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さいごに
トラウマは脳疾患ではなく、社会問題です。
ヴァン・デア・コークは、脳疾患モデルは、次の4つの基本的な事実を見落としていると言います。
- お互いを破壊しあう私たちの能力は、お互いを治癒する能力と同じであり、人間関係とコミュニティを回復することが重要。私たち人間は相互依存の深い動物であり、人間関係が健全である限り、概してトラウマには強い
- 言語は、自分が知っていることを定義し、自分の経験を伝え、共通の意味を見つけることによって、自分自身や他人を変える力を与えてくれる
- 私たちは、呼吸、運動、五感などの基本的な活動を通じて、体や脳のいわゆる不随意機能の一部を含め、自分自身の生理機能を調節する能力を持っている
- 私たちは、子どもも大人も安心して成長できる環境を作り出すために、社会を変えることができる
これらの人間の本質的な側面を無視すると、私たちはトラウマを癒し、自律性を回復する方法を失うことになります。
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今回の短い紹介だけでお気づきになったかどうか分かりませんが、ヴァン・デア・コークは、精神科医であり脳科学者であるだけでなく、患者にとって何が最も有益かを学び続けるセラピストであり、社会論者でもあるでしょう。
繰り返しますが、内容がとても深く濃く、専門用語も多用されますが、ご興味がありましたら、ぜひ手に取って読んで頂きたいと思います。先ほど紹介したYoutubeを先に見て頂くのもよいでしょう。