スピリチュアリティとは、意識の本質を知ることです。意識は鏡であり、思考や感情はそこに映るものです。鏡に何が映ろうが鏡は鏡のままであるように、意識はその時々の経験に影響されることなく意識であり続けます。そこに映るものに執着せずに観察することができれば、思考や感情に振り回されず、心の平安を得ることができます。
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はじめに
私は特定の宗教を信仰しているわけではありません。
しかし、現代社会の様々な問題を解決するためには、宗教そのものではなく、かつて宗教が私たちに提供していたであろうエッセンスを取り戻す必要があると、このサイトで何度か書いてきました。今回紹介するのは、そのエッセンスに通じるものです。
宗教はこの世の中に様々な弊害をもたらしています。
世界で終わることなく繰り返される宗派間の対立を見て、宗教は私たちに幸せや平和をもたらすものではないの?なぜ憎しみ合いや殺し合いばかりしているの?と不思議に思う方も少なくないでしょう。解決には相互理解や対話が必要ですが、それすら遮断されています。
もちろん、宗教の教えが私たちの人生に意味や救いをもたらすことはあります。しかし、その教えの中には、明らかに誤ったものや分断を招くものもあります。
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宗教ではないスピリチュアリティ Spirituality without Religion
今回紹介する書籍「Waking Up: Searching for Spirituality Without Religion(邦訳)目覚めよ: 宗教ではないスピリチュアリティへのガイド」(2014 年)の著者サム・ハリス(Sam Harris, 1967-)は、アメリカの作家であり、哲学者であり、脳科学者です。
なお、私は本書の英語版を読んでいますが、どうやらこれまで日本語に翻訳されているサム・ハリスの本は一冊もないようですね。この本を含めて彼の本にはベストセラーが何冊もありますし、何か国語にも翻訳されていますが、その内容が日本の人たちにはあまり馴染まないからでしょうか。。。
彼の本が読みづらいこともあるかもしれません。日本人には特に読みづらいでしょう。少なくとも私にはそうです(笑)。
哲学的で(哲学者だから仕方ありませんが。。。)、難しい表現を使ったり、シンプルなことを理解し難しく説明するからです。そのため、正直に言って好んで読みたいタイプの本ではありませんが(汗)、だからと言って本の内容が悪いということでは決してありません。
書籍からすべてを理解しようとするより、以下のようなYoutubeを合わせて見るとより分かりやすいかもしれません。上の方のYoutubeは、この本が出版されたすぐ後のもので、下の方のYoutubeは割と最近のものです。
ここでは、できるだけ分かりやすく彼の主張を紹介しましょう。
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宗教とスピリチュアリティの違い Spirituality vs Religion
彼は宗教を批判します。宗教の教義と信念に基づく世界観は有害で、合理的思考や科学的根拠を受け入れないからです。
信仰は非合理的で、理論的でなく、まったく根拠のないことさえ盲目的に信じるように人を導き、宗教以外の文脈では到底受け入れられないような不条理や危険な考え、権威主義さえ、宗教であればなぜか受け入れられてしまうと述べています。
多くの人がスピリチュアリティを宗教的信仰と同一視しています。あるいは、私のように、宗教もスピリチュアリティも何かうさんくさいものと捉えています。
サム・ハリスは、スピリチュアリティと宗教は本質的にはつながっていないと主張し、この2つを明確に区別しています。宗教は教義、盲目的な信仰、排他的な絶対主義、権威に基づいているのに対して、スピリチュアリティは、科学的なアプローチ、個人の直接的な経験に根ざしています。
彼は、宗教から宗教的要素を取り除いたスピリチュアリティを核とするアプローチを提唱しています。スピリチュアリティは、信仰を必要とせずに、意識、幸福、自己超越を探求するアプローチです。
表:スピリチュアリティと宗教の違い
スピリチュアリティ | 宗教 |
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個人的な経験、意識 | 信仰、聖典、教義 |
科学的に開かれている | 超自然的な主張に基づく |
自己探求、瞑想、マインドフルネス | 祈り、儀式、崇拝 |
「自己」は幻想 | 自己は永遠に死後も存在する |
幸福と証拠に基づく | 宗教的な文脈から派生 |
包括的、世俗的 | 信者に限定 |
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意識 Consciousness
サム・ハリスが説く「意識」は、この本のテーマの1つであるだけでなく、その他の著書やインタビュー、ポッドキャストなどで彼が繰り返し論じているテーマです。
彼は、意識を「主観的な視点を持つ経験:experience of having a subjective point of view」と定義しています。私たちは意識に現れるものしか認識できないため、経験は意識と同じだと述べます。意識は人間の経験の基本的な現実です。ハリスは意識を「経験を認識すること:consciousness is awareness of experience」とも定義しています。
彼は、経験が無意識に起こるという考えを否定します。なぜなら、意識の外で何かが起こったなら、それは主観的な経験の一部ではないからです。
ハリスにとって、経験と意識は切り離せないものです。なぜなら経験はそれを認識しているときにのみ起こるからです。
音楽を聴くと、その音は意識の中に存在します。
痛みを感じると、痛みは意識の中に存在します。
意識の外で何かが起きても、意識的に経験されません。
脳活動のほとんどは無意識に起きるので、それらは経験ではありません。心臓や胃などの生物学的な活動は、意識的に経験するものではありません。私たちが「経験」と呼ぶものは意識的なものだけです。
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「意識」と「意識の内容」は異なる
さらに重要なのは「意識は意識の内容ではない」という点です。つまり、意識は、意識の中に現れる思考、感情、感覚、イメージとは別物だという点です。
繰り返しますが、意識(純粋な意識)と意識の内容(思考、感情、知覚など)は同じではありません。この意識の本質を理解することが精神的探求の核心です。
思考や感情が浮かんでは消えていっても、意識は常にそこに存在します。意識はすべての経験が展開される空間です。思考、感情、痛み、喜びなど、私たちが経験するものが何であれ、すべては意識の中で起こります。しかし、それらは意識そのものではありません。しかし、多くの人たちが、これを混同しています。自分の考えや感情が自分そのものであるかのように間違って捉えています。
意識(純粋な意識、認識): 経験の基本的な事実、「意識している」という一定の経験
意識の内容: 意識の中に生じる思考、感情、光景、音、感覚。常に変化し、移り変わる
例えば、
目を閉じて音を聞くと、意識の中で音が生じることに気付きますが、意識自体は変化しません。
同様に、思考は現れたり消えたりしますが、意識の空間は同じままです。
つまり、意識は、思考の主体というよりは、思考の観察者に近いのです。
思考に執着せずに思考を観察するのです。怒りが湧き上がっても、それを自分の怒りではなく、ただの一時的な感情として観察者として見ることができれば、怒りに振り回されなくなります。
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「私」であるという感覚は心が作り出した幻想
ハリスは、「自己」も今説明した「意識の内容」にすぎないと主張します。そして「自己は幻想」だと言います。これが本書のメインテーマです。
私たちは自分の思考や感情を自分と同一視し、それが自分そのものであると信じています。私たちが「私」と呼ぶものが自分の核をなし、思考の背後には常に「考える人」がいて、あらゆる思考の起点になっているように感じます。
しかし、思考は単に自ら生じるものであり、思考を生み出す「自己」は存在しません。脳は様々な部分から構成されていますが、脳の中に「自己」という部位は存在していません。
ひょっとしたら自分の存在が目や耳の後ろ辺りにあるように感じるかもしれませんが、そこに「私」は存在しません。思考の背後に本当の「私」はいません。「私」は単なる感覚で、本当の自分ではありません。
生まれてから今に至るまで連続する「私」という感覚は、実在するものではなく、脳の中、心の中で構築されたものにすぎません。私たちの性格、記憶、考えは時間とともに変化します。今日の「あなた」は、子供の頃の「あなた」とは異なります。
自己は、思考と知覚によって作り出された心理的構成物です。「自己」は内在する実体ではなく、むしろ心が作り出した錯覚であり、永遠に続く誤解であり、虚像です。
自己、つまり頭の中に持っている「私であるという感覚」は幻想なのです。
なお、彼は、別の書籍である「Free Will(邦訳)自由意志」でも書いているように、私たちの思考や意思決定は、私たちが気付く前に無意識のプロセスから生じるため、自由意志も幻想だと考えています。意思決定は、私たちが意識的に行う前に脳が行っています。
思考の背後に本当の「私」がいないのであれば、思考に執着する必要はありません。自己を手放すことで、より大きな自由と他人への思いやりが得られます。なぜなら、誰もがつかの間の経験の集まりに過ぎないということに気付くからです。
自己の幻想から抜け出すと、自分とは別の世界を眺めているという感覚を変えたり、完全に消滅させたりすることができます。これが「自己超越:self-transcendence」です。
自己超越は、宗教的に聞こえる言葉ですが、それ自体には何も宗教性はありません。単なる神秘的な体験でもなく、実用的な利点があります。ハリスは、自己超越を、自己感覚を超える経験、つまり自分と世界との境界が消え、自己に基づくアイデンティティのない、意識の直接的な知覚がある経験と説明しています。
それは、より大きな思いやり、苦しみの軽減、そして自己の懸念に縛られないより流動的なアイデンティティの感覚につながります。
ほとんどの人は「自己」を守ることに一生懸命ですが、自己が幻想だと理解できれば、地位やプライドに執着する必要がなくなります。
「自己」との同一視をやめることは、不安をかき立てるものではなく、深い解放をもたらします。 私たちの苦しみの多くは、守らなければならない、改善しなければならない、または維持しなければならない自己という観念に執着することから生じます。この幻想を手放すことで、心理的苦痛が軽減されます。
「私」という感覚に執着せずに意識の中身を観察することができれば、今という瞬間とのより深いつながりの感覚や明晰さが得られます。思考や感情をそれほど個人的に受け止めなくなるため、より大きな幸福と心の平安を体験することができます。「私」と「他人」の境界がより流動的になり、相互のつながりの感覚が生まれ、他人に対してより深い思いやりを育むことができます。
ハリスは特にマインドフルネスや瞑想を推奨していますが、自分を客観的に見ることで、意識が必ずしも「自己=自分のアイデンティティ」に結びついていないことが明らかになります。思考と意識を俯瞰することができます。自己が幻想であるという認識は、不必要な苦しみや執着から私たちを解放します。それは、自分のアイデンティティを失うことではなく、私たちが固定した存在であるという認識が誤っていることを知ることを意味します。
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「意識」は鏡で、「意識の中身」は鏡に映るもの
ハリスは、この「意識自体 (認識)」と「意識の内容 (思考、感情、知覚など) 」の違いを、鏡に例えて説明します。
鏡はその前にあるものすべてを映しますが、映したものによって鏡自体が変化することはありません。
鏡が鏡に映されたものに影響されないように、意識も、思考や感情から切り離されています。それらは単に意識という鏡に現れて消えるだけです。意識にはすべての経験が含まれますが、それによって変化することはありません。
鏡が火を映しても、鏡は熱くなりません。同様に、意識に苦痛の感情が生じても、意識自体は苦しみではなく、思考や感情だけが苦しみです。
意識は鏡であり、思考や感情は反射物です。固定した「自己」など存在せず、一時的な心の状態だけが存在するのです。
鏡に映るすべての思考や感情に執着する必要はありません。
鏡に何が写ろうが鏡は鏡のままであるように、意識はその時々の経験に影響されることなく意識であり続けます。思考、感情、経験は意識の中に一時的に含まれるだけで、鏡に映っては消えていきますが、意識自体は変わることなくそこにあり続けます。
この認識を得ることができれば、私たちは自分の意識の内容に振り回されなくなります。思考や感情と自分を同一視しなくなるため、苦しみを軽減できます。より明晰で心の平安が得られます。他の人たちの気持ちを知り、協力できるようになります。
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「自己」と「スピリチュアリティ」の関係
宗教的要素を取り除いたスピリチュアリティとは、意識の本質を知ることです。自己という幻想を見抜くことであり、これにより、自己から切り離され、不必要な苦しみが軽減され、深い心理的自由と幸福を得ることです。
自己が消滅すると、残るのは純粋な認識だけです。
自己という幻想を認識すると、「私」と「他人」の間の高い壁がなくなるため、より思いやりと開放性が生まれます。
この認識に宗教的教義や、超自然的な信念、権威、神秘性は必要ありません。自分の意識を探求する意志のある人なら誰でも達成できるものであり、神や教祖への崇拝も必要ありません。むしろこれこそが本来宗教が達成すべきものではないでしょうか。
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さいごに
本書の文脈における「スピリチュアリティ」の意味は、科学的観点から、物事のあり方の理解を深め、自己の幻想から繰り返し繰り返し自分を切り離すことです。
ハリスは、私たちの心が私たちの経験を形作ることを認識し、私たちの考えや感情をよりよく理解できるように心を訓練することを提唱しています。心理学や脳科学など科学的観点から、私たちの仕組みを知ることが重要です。また、彼は、瞑想は感情をコントロールするための強力なツールになり、私たちがより大きな自由と意識を持って世界に対応できるように助けると主張します。
ただし、残念ながら、ほとんどの人は、自分の内面を見ようとしても、内面まで届かず表面的なところだけ見て「意味がない」と結論付けてしまっているか、届いたつもりになって勘違いしています。
まず第一に、思考を思考として、つまり意識の中の一時的な出現として認識することを理解し、たとえ短時間であっても、その思考に惑わされないようにトライしてみてください。これはとても簡単なことのように聞こえるかもしれませんが、実際に達成するのは容易ではありません。
思考は私たちにとって欠かせないものです。しかし、思考を思考として認識できないことが、人間の苦しみと争いの原因になっています。それが幻想を生み続けています。たとえ一瞬でも、どんな思考にも自分を奪われない経験をしてみてください。