「知っている」と「実際にやる」は全く異なります。「知っている」を「実際にやる」に変えるためには、人が適応するための心理的な仕組みを理解する必要があります。製造業の品質改善手法を応用して医療の質・安全性を高めるユニークな取り組みを行ってきたアメリカのNPO団体IHIがまとめた「変化の心理学のフレームワーク」を紹介します。これらの教訓はどんな組織変革にも適用できます。
~ ~ ~ ~ ~
はじめに (IHI : Institute of Healthcare improvement)
以前本サイトで、アメリカのNPO団体であるIHI(Institute of Healthcare improvement:「ヘルスケア改善協会」や「医療の質改善研究所」などと訳されています)の取り組みを紹介しました。
IHIの発足は、1987年にアメリカでおこなわれた「ヘルスケアの質向上に関する国家実証プロジェクト」に端を発します。このプログラムは、のちにIHIのCEOとなるドナルド・バーウィック医学博士(Donald Berwick)を筆頭に、医療システムの再設計に先見性のある人たちが関わったもので、医療上のミス、無駄、遅れ、高額な医療費などの問題に対して、製造業の品質改善手法を応用して改善を図るものでした。
取り組みでは、AT&T、コーニング、フォード、ヒューレット・パッカード、IBM、ゼロックスなど、当時のアメリカを代表する企業から品質管理手法に関する支援を受けました。
参加した医療機関の多くが大きな成果を上げました。初期の成功例には驚くべきものがあります。イギリスのレスター王立病院は、40日かかっていた神経学的検査をわずか1日に短縮し、それに伴って管理コストも40%削減しました。他の病院では、いくつかの処置で入院期間をほぼ半分に短縮し、救急治療室の待ち時間を70%短縮し、健康診断にかかる時間を67%削減しました。ある病院では、手術後の感染症を半減させました。
IHIはそのプログラムを引き継いで1991年に設立され、今では世界中に影響力を持つ組織へと成長しています。(1)
~ ~ ~ ~ ~
改善の科学:Improvement science
IHIは、様々な組織と協力して、医療サービスの質、安全性、価値の向上に取り組むユニークなアプローチを進めてきました。このアプローチを改善の科学(Improvement science)と呼んでいます。
改善の科学(Improvement science)は、日本の製造業や経営にも大きな影響を与えたW・エドワーズ・デミング(W. Edwards Deming)が提唱した「マネジメントの原則を守ることで、組織は品質を高め、同時にコストを削減することができる」という考えをベースにしており、IHIの方法論はデミングの「深遠なる知識のシステム(System Of Profound Knowledge® :SoPK)」とも重なります。
実務上特に大事なのはPDSA(Plan-Do-Study-Act)(*)のサイクルを回すことです。
IHIでは、まず明確な改善目標と測定計画を立てて、短期間で改善につながると思われる小規模で試験的な変化の取り組みをすぐに開始します。こうした小規模な取り組みが洗練され、うまく実施されるようになると、そこから得られた学びを利用して、取り組みの範囲を広げ変化の規模を拡大し始めます。
IHIの専門家は、パートナーと一緒に試験的に変化を取り入れ、学びながら改善し、持続的な変化に向けた最善の道筋を探っていきます。
なお、IHIのホームページでは、改善の科学の手法を紹介したビデオやツールキットが無料で提供されています(英語ですが)。
(*) 日本ではPDCA(Plan-Do-Check-Act)サイクルが一般的に知られていますが、デミングはPDCAではなく、PDSA(Plan-Do-Study-Act)という言葉を好んで使っています。
~ ~ ~ ~ ~
変化の心理学のフレームワーク:IHI Psychology of Change Framework(2)
改善の科学(Improvement science)は、医療従事者に、変化のシステムを理解し、望ましい結果を得るために必要な、エビデンスに基づく最善の診療の情報、その実施戦略を決めるための理論的枠組み、技術的なスキルを提供してきました。
しかし、世界中の医療改善担当者は、変化を実現することに、いまだに苦労しています。
それは「何を」「どうやって」という技術的な側面は整備されてきたものの、実際にそれを行動に移して改善を進め、その効果を維持していくために必要な「誰が」「なぜ」といった人的側面の対応が十分でなかったためです。
本サイトでも度々紹介してきたように、人が変化に適応するためには、技術的側面と人的側面の両面での手当が必要です。産業を問わず、多くの組織で改善や変革の取り組みがうまくいかないのは、人的側面の配慮が欠如しているからです。技術的な問題は医師などの専門家が解決できます。しかし、人的側面は数多くの利害関係者が共同しなければ対処することができません。多くの医療関係者が、医療の質の向上を最新技術を導入することと誤解しています。
例えば、血圧を下げるために薬を投与するのは技術的なアプローチだけで済みますが、患者さんにライフスタイルや食生活を変えるよう呼びかけるのは適応的、人的なアプローチが必要です。適応的な変化(adaptive change)は、新しいスキル、行動、信念を取り入れようとする人たちの心理に大きく依存します。ライフスタイルや食生活の「何を」「どうやって」変えるべきかは多くの人がすでに理解しています。しかしそれができないのは、「なぜ」それをするのかという強い動機が欠けているからです。
「知っている」と「実際にやる」は全く異なります。「知っている」を「実際にやる」に変えるためには、人が変化を受け入れ適応するための心理的な仕組みを理解する必要があります。
IHIの「変化の心理学のフレームワーク:Psychology of Change Framework」(2)は、変化の根底にある心理を理解し、その力を利用して、変革の取り組みによって直接的・間接的に影響を受ける人たちと共に持続的な成果を達成したいと考えるリーダーのためのガイドです。そして、ここに書かれていることは医療従事者のみならず、その他すべての産業のリーダーにも通じるものです。
変化の心理学のフレームワークによると、以下の3つの変化が必要です。
- 【自己】:思考と感情を変え、自らの意志によって、個人が主体的に行動を変えること
- 【人と人との関係】:人が共に考え、感じ、行動することで集合的な主体性が高まること
- 【システム】:共通の目的を達成するために必要な主体性と協力を生み出すことを支援する、組織内・組織横断的な構造、プロセス、条件などのシステムレベルの変化
そして、これら3つの変化を以下の相互に影響しあう5つのエリアで実現します。
- 内発的動機を引き出す:Unleash Intrinsic Motivation
- 人を主体とした変革の仕組みを共に設計する:Co-Design People-Driven Change
- 誠実で正直な関係で共に取り組み共に生み出す:Co-Produce in Authentic Relationship
- 力を分散させる:Distribute Power
- 行動によって変化に適応する:Adapt in Action
これらの変化の心理学のフレームワークの5つのエリアをそれぞれ見ていきましょう。
~ ~ ~ ~ ~
1.内発的動機を引き出す:Unleash Intrinsic Motivation
内発的動機とは、楽しさ、喜び、やりがいを感じるからこそ、自分がやりたいと思い、活動に取り組むことです。一方で、お金や名誉を得る、懲罰を回避するなど、外部から何かを得る理由で生まれる行動の動機付けを外発的動機と言います。
仕事の意味、仕事へのプライド、人と人の相互関係や信頼関係の構築、人や社会への貢献の意識づけ、それらが体現されたストーリーの共有などにより内発的動機を高めることで、個人と集団の行動へのコミットメントが強まります。
社会・組織心理学者のリチャード・ハックマン(Richard Hackman)と経済学者のグレッグ・オールドハム(Greg Oldham)は、人の内発的動機を生み出しコミットメントを持続させることができるように、改善活動に関わるタスクを設計することを重要視しており、そのためにタスクに組み込むべき設計基準を5つ挙げています。
- 行動の同一性:その行動を最初から最後まで完遂することができる
- 行動の重要性:その行動は違いを生み出し、より大きな目標に貢献する
- スキルの多様性:多くのスキルを必要とし、退屈な単純作業や繰り返し作業ではない
- 自律性:行動者には自分の行動を選択する自由がある
- フィードバック:自分の行動の結果を知ることができ、今後の改善の見極めに使用できる
これらの基準を最大限に満たすような行動を設計できると、人は「仕事の意義」「結果に対する責任」「実際の結果を知る」という3つの心理状態を経験することになります。これらの心理状態が人としての成果と仕事における成果を推進し、内発的動機の高さ、質の高い仕事ぶり、仕事への高い満足度、欠勤や離職率の低さにつながるのです。(3)
~ ~ ~ ~ ~
2.人を主体とした変革の仕組みを共に設計する:Co-Design People-Driven Change
変化の影響を受ける人たちは、自分たちにとって意味があり実行可能な方法で変化が仕組化されることに最大の関心を持ち、そしてそのプロセスに自ら参加したいと思っています。
IHIの変化の心理学のフレームワークは、新しい仕組みをごく少数の人たちで決めてそれを一方的に押し付けてやらせるのではなく、人主導の変化を共同設計することで、すべてのステークホルダーがアイデア出しのプロセスに参加できるようにします。
例えば、メリーランド州の取り組み事例では、高齢者ケアの改善チームに、自らが高齢者であるメンバーが参加して共同設計しています。つまり、患者さんから始めて問題に取り組むのであって、その逆ではないのです。
仕組みを共に作る上で重要なのは「私たち」という言葉であり、私たちは何を達成しようとしているのか?という問いです。「私たち」には、内部および外部の利害関係者(ステークホルダー)、つまり改善の影響を直接および間接的に受ける人たちが含まれます。これらのステークホルダーが協力しあうことで、改善すべき問題を解決し、解決した状態を維持することができます。
~ ~ ~ ~ ~
3.誠実で正直な関係で共に取り組み共に生み出す:Co-Produce in Authentic Relationship
人々が互いに問いかけ、耳を傾け、理解し、関係にコミットするとき、共に変化を生み出すことができます。
共に何かに取り組み、成果を生み出すためには、人と人の誠実で正直な真の関係が大切です。そのような関係は、お互いを支援し合うために、問いかけ、耳を傾け、見守り、コミットすることで育まれ、そのためには、相手に対する真の好奇心、謙虚さ、弱さを見せる勇気、聞く力が必要です。
真の関係を持って共に作業を行うことは、それぞれのメンバーが本当の自分や考えを表現することができ、自分と相手の違いを認め、相互に行動を約束できるような関係を作ることを意味します。
このような人間関係を築くには、従来の取引型の関係構築よりも時間がかかります。取引型の関係(transactional relationship)とは、サービスを提供する人と受ける人といった関係であり、指示する・指示される、巻き込む・巻き込まれるという関係です。真の関係性を構築するには時間がかかりますが、いったん構築されると、むしろ物事を前に進めるための時間は短くなります。また、従来の取引型の関係では得られない結果が得られるようになります。
英国のシンクタンクであるNew Economics Foundationは、共に取り組み生み出すためのアプローチを次のように説明しています。(4)
- 人を負担や重荷と考えるのでなく、目的を実現することに貢献する資産(アセット)として扱う
- 成長と発展のための機会を提供する
- 利害関係者のエモーショナル・インテリジェンス(自分と他者の感情を認める能力、感情知能:EQ)を高める
- サービスの提供者と受諾者、生産者と消費者といった区別を最小化する
- 関係するすべての人に、真の責任、リーダーシップ、権限を与える
例えば、2012年、サウスカロライナ州のコロンビアでは、全米でも最も高いレベルにあった糖尿病を減らす取り組みで、医療従事者と地域住民が協力することに成功しました。この取り組みに携わったある病院のシニアリーダーは次のように言います。
「私たちは、地域住民に対して『あなたたちはこうすべきだ』と言う代わりに『あなたたちから学びたい。あなたたちはどうしたいのか、私たちはどう協力できるのか』と聞きました」(5)
そして、地域住民も同じように、医療提供者に「何をしてくれますか?」と聞くのではなく「このようにしてもらえませんか?」と話す方向にシフトしたのです。お互いがお互いの関係の捉え方を変えたのです。
~ ~ ~ ~ ~
4.力を分散させる:Distribute Power
「力を分散させる」とは、多くの人たちが、境界や上下関係を超えて、共通の目的を達成するための条件を作り上げるために協力し、各人が相互依存的な役割を果たすことを意味します。力が適切にメンバー間で共有されているとき、人は自らが持つユニークな資産(アセット)を使って、変化をもたらすことに貢献できます。
トップが権限を保持するのではなく、チームメンバー全員が権限と責任を共有する分散型のリーダーシップ構造を構築するために協力し合います。例えば、医師、看護師、管理者の3者がリーダーシップを共有し、権限を分散させて、それぞれが持つ強み(アセット)を生かして主導し、特定の課題に共同して取り組むのです。
そのためには、分散型リーダーシップ構造全体の役割を明らかにすることが重要です。医療機関の多くは階層組織になっていますが、階層構造であっても、リーダーはその構造を維持しながらも、権力を分散し、メンバーの主体性を活性化する、より自由で柔軟性のあるアジャイルなネットワークを構築することができます。この仕組みをデュアル・オペレーティング・システム(Dual Operating System)と言います。(6)
~ ~ ~ ~ ~
5.行動によって変化に適応する:Adapt in Action
行動は、人が勇気を示した結果であり、各人が持つ力を行使した結果です。行動することは、人が効果的に学習し、反復するための動機付けとなります。
失敗してもかまいません。大切なのは、失敗を分析し、そこから学ぶことです。データは、取り組むべき傾向やパターンを明らかにする手がかりとなります。つまり大事なのは、PDSA(Plan-Do-Study-Act)のサイクルを回すことです。
~ ~ ~ ~ ~
さいごに
旧来、医療は医師を中心としたものでした。そして、残念ながら、多くの病院では、患者は顧客としてではなく、一方的に試験され、結果を押しつけられるように扱われてきました。そして、プロセスが複雑になってしまっているのにもかかわらず、同時に多くの管理されていないプロセスもあり、問題を引き起こしていました。
多くの医療機関で重要なのは、ケアをプロセスとして捉えることです。
IHIの変化の心理学のフレームワークは、チームのコンプライアンスではなくコミットメントです。メンバーは「しなければならない」からするのではなく「することを選択する」のです。それが人に力を与え、スキルや喜びや満足度を引き上げます。
チームメンバー1人ひとりの潜在能力が最大限に発揮されるように、考え方や行動を進化させる環境を整えるためには「人の主体性を活性化する」ことが必要です。私たち1人ひとりの中に、そしてすべての人の中に、システムをより良いものにするために必要な要素がすでにあります。人の価値に焦点を当て、勇気と力の核心に触れることで、これまでのやり方を変える機会がもたらされます。
そして、IHIの変化の心理学のフレームワークは、医療分野にとどまらず、広く応用することができます。「ヘルスケア」という言葉を取り除けば、これらの教訓はどんな組織にも適用できるのです。
IHIの「変化の心理学のフレームワーク:Psychology of Change Framework」の概要は白書を読む他にも、下記のYoutubeなどでも知ることができます。英語で3時間40分ありますが、ご興味のある方はどうぞご覧ください。。。
~ ~ ~ ~ ~
参考文献
(1) A. Blanton Godfrey, “Quality Management“, Quality Digest.
(2) Hilton K, Anderson A., “IHI Psychology of Change Framework to Advance and Sustain Improvement”, IHI White Paper. Boston, Massachusetts: Institute for Healthcare Improvement; 2018. (Available at ihi.org)
(3) Richard Hackman, Greg Oldham, “Motivation through the design of work: Test of a theory”, Organizational Behavior and Human Performance, 16(2), pp250-279, 1976.
(4) Lucie Stephens, Josh Ryan-Collins and David Boyle, ”Co-Production: A Manifesto for Growing the Core Economy”, New Economics Foundation, 2008.
(5) Hilton K, Wageman R., “Leadership in volunteer multistakeholder groups tackling complex problems.”, In: Peus C, Braun S, Schyns B (eds). Leadership Lessons from Compelling Contexts (Monographs in Leadership and Management). Emerald Group Publishing Limited; 2016.
(6) John P. Kotter, “Accelerate!“, Harvard Business Review, 2012/11.