年々、新しい科学的事実が明らかになり、情報の量とスピードは飛躍的に増していますが、必ずしもそれが良い決定につながったり、良い世の中につながってはいません。情報は真実と同義ではないからです。人は必ずしも「真実」の情報を求めていないからです。人は情報を通して、良くも悪くも人とのつながりを作ろうとするのです。
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はじめに
今や人工知能 (AI) はすっかり日常になりましたね。
私も本業でChatGPTやCopilotなどのチャットボットを使い倒していますが、もはや、優秀なアシスタントの1人という感じで、業務を効率よく進める上でなくてはならない存在です。
このサイトの記事を書くにあたっても、知りたいことを聞いたり、気になったことを問いかけたり、壁打ち相手として重宝しています。一方で、あまりにも上手く答えるため、恐ろしく感じることもあります。
ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari, 1976 -)は、イスラエルの歴史学者であり、世界的ベストセラー「Sapiens: A Brief History of Humankind(邦題)サピエンス全史:文明の構造と人類の幸福」(2011年)の著者です。
今回紹介するのは、彼の最新作である「Nexus: A Brief History of Information Networks from the Stone Age to AI(邦題)NEXUS 情報の人類史」(2024年)です。
ハラリはこの本で、情報ネットワークの進化とそれが人間社会に及ぼす影響について説明しています。
情報共有の起源をたどり、石器時代から古代の聖典、現代の人工知能 (AI) にいたるまで、人類がどのような情報技術を生み出し、それがどのように社会や文化の形成に結びつき、私たちの考え方に影響を与えてきたか、その歴史的および社会的役割を掘り下げて考察しています。
なお、いつものように私はこの本の英語版を読んでおり、日本語版は読んでいません(そもそも、これを書いている時点ではまだ日本語版は出版されていませんが)。そのため、日本語版との表現の違いなどについてはご了承ください。
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NEXUS 情報の人類史
人は長い歴史において膨大な情報を記録し蓄積してきました。昨今、その量は天文学的に増加していますが、実は、より多くの情報があることが必ずしも良い決定につながったり、世の中が良くなることには寄与してはいません。
その1つの理由として、「情報」は「真実」と同義ではないからです。
そして、もう1つの理由として、人は必ずしも「真実」の情報を求めていないからです。
ハラリは、情報は知性や知識、事実や真実を映し出したものではなく、人と人とのつながりに関するものであり、集団形成に利用されてきたと主張します。情報は、社会の中で力を得たり、その力を維持するための重要なツールです。古代帝国から政治家、現代の大手テクノロジー企業まで、情報の流れをつかむ人や集団は、社会で大きな影響力を発揮してきました。
情報には「うそ」も含まれます。むしろ、デジタル時代の今、私たちの世の中は偽りの情報であふれかえっていて、その真偽を見分けることが難しくなってきています。情報伝達の高速化と大規模化、大衆化は、正しい理解を広めるよりも、間違った理解を広めることを加速させています。
ハラリは、現代のテクノロジーがもたらす潜在的な危機、特に人工知能 (AI) の出現に対する大きな懸念を表明しています。
本書は様々な観点から「情報」を取り扱っていますが、その中でも私が最も印象を受けた「情報は真実と同義ではない。人と人とのつながりを作るものである」という点にフォーカスして本書を紹介しましょう。これはハラリが書籍全体を通じて強調しているテーマでもあります。
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情報とは?
ユヴァル・ノア・ハラリは、情報とは「現実を映し出すもの」ではなく、「人と人のつながり」であり、「集団を形成する手段」だと主張します。
従来、情報は事実を客観的に映し出し「人が世界を客観的に理解するのに役立つもの」、「正確性に基づいた意思決定を導くもの」、「世代を超えて知識を広め利用するもの」などと理解されていました。
その考えに従えば、情報は可能な限り正確であるべきです。そして、正確な情報が広まることで、科学的知識や理解が高まり、人と社会の意思決定が改善されるべきです。
しかし、ハラリはこの見解は過度に理想主義的だと異議を唱えます。
情報の真の力は、現実世界を説明することでなく、人を結びつけ集団行動を形成する能力にあります。逆に言うと、情報が広がるのは、それが真実だからではなく、つながりを生み出し、その結びつきを強化するからです。
私たちの社会は、宗教、貨幣、国家、法律、主義、制度、企業などの共通の「神話」を信じることで成立しています。
これらは科学的な意味では「真実」ではありません。ただの「概念」です。しかし、その概念が私たちに協調行動を促し、それによって社会が形成され世の中が機能しています。
例えば、お金に価値があるのは、私たちすべてがそう信じているからです。1万円札には本質的な価値はなく、単なる紙切れです。誰もがそれを価値あるものとして受け入れるのは、全員が金融システムを信じているからです。ただし、そのシステムは客観的な真実ではなく、共有された概念や信念によって形作られています。
情報は、事実ではなく、相互主観的な現実を生み出し、社会がまとまりを持って機能するためのツールなのです。神話、概念、ストーリーが社会を形作っているのです。
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相互主観的な現実 Intersubjective Realities
相互主観的な現実(Intersubjective Realities)とは、多くの人が集合的に信じているからこそ存在するものです。客観的な現実(人間の信念とは無関係に存在するもの)や主観的な現実(個人の心の中にのみ存在するもの)とは異なり、相互主観的現実は人間の共有された想像力がベースになっています。
相互主観的現実は「偽物」でも「嘘」でもありません。
社会で共有された「フィクション」であり「作り話」です。
しかし、これらの信念に基づくシステムにより、人間は本能だけに頼るその他の動物とは異なり、大多数が協力することを可能にするのです。逆に言えば、人がその作り話を信じなくなった瞬間、そのシステムが支えていた社会は崩壊します。
人間の文明は客観的な現実ではなく、社会的な現実に基づいているのです。
社会的な現実は諸刃の剣です。人同士の協力を可能にすることもできますが、社会的な現実を支配することができれば、世界を支配することもできます。実際に、私たちの信念を支配しようとする、権力者、政府、企業が今の世の中にも実在しています。
人間は客観的な現実よりも社会的な現実を優先します。
人は必ずしも客観的な事実に基づく情報を求めたり受け入れたりするわけではありません。代わりに、自分の感情、アイデンティティ、社会的つながりに一致する物語を求めます。
真実は固定されていません。柔軟で曖昧です。それは人間が作る物語によって決められるからです。
事実がどのように組み立てられるかによって、私たちが「真実」と捉えるものが決まります。
事実は信念がなくても存在できますが、社会的現実には集団的信念が必要です。
人間がいなくなっても、重力と太陽は存在します(客観的な現実)。
しかし、お金、法律、国は人間の信念に依存しているため、存在しなくなります(社会的現実)。
そして、フェイクニュースや偽情報は、事実と真実のギャップを利用します。
虚偽の物語は、たとえ客観的な事実と矛盾していても、人々が「真実」と認識するものや、そう認識したいものを形作ることによって力を得ているのです。
歴史上最も強力な力は軍隊や武器ではなく、人々が信じる物語だ。
~ ユヴァル・ノア・ハラリThe most powerful forces in history are not armies or weapons, but stories that people believe in.
~ Yuval Noah Harari
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情報と宗教の関係
本質的に、宗教は情報伝達と深く絡み合っています。なぜなら宗教は、世界の事実ではなく、人々を結びつける力に依存しているからです。
宗教は、教義や神話や物語という情報を広く共有することで、お互いに見たことも会ったこともない大勢の人たちを団結させ、大規模な集団的アイデンティティを形成する代表例です。
その典型が聖書です。
聖書は単なる宗教文書ではなく、教え、歴史、物語を広める情報システムでもあります。聖書は、何世紀にもわたってその目的を果たすための強力なツールとして機能してきました。
人類が文書化という技術を生み出し、聖書が正典化されたことで、指導者たちは信念をスタンダード化することができました。キリスト教の教えをさまざまな地域や世代に広め、共通の物語の下で多様な人たちを統合しました。
人は聖書や神話を信じ、それによってその他の人たちと結びつけられますが、聖書や神話は必ずしも客観的な事実を反映しているわけではありません。むしろそのほとんどは事実ではありません。
もっと極端な例として、イエス・キリストを考えてみましょう。
ハラリ自身が書いているように、敬虔なキリスト教徒にとっては冒涜にあたるでしょうが、実在したイエスと、物語上のイエスは異なります。多くの人たちが知るように、本物のイエスは、説教をしたり病人を癒したりして少数の信者を獲得した典型的なユダヤ人の説教者の1人に過ぎませんでした。
しかし、その死後にイエスは人類史上最大のブランド化キャンペーンの対象となります。
聖パウロ、テルトゥリアヌス、聖アウグスティヌス、マルティン・ルターなどの人たちは、決して誰かを騙そうとしたわけではありません。彼らを含めた数多くの人たちが、私たちが両親や恋人、恩師に感情を投影するのと同じように、イエスの姿に自分たちの深い希望や感情を投影し、様々な物語を追加したのです。
家族は、人類が知る最も強い絆です。物語が見知らぬ人同士の信頼を築く方法の 1 つは、これらの見知らぬ人がお互いを家族として感じ合うことです。
イエスの物語は、イエスをすべての人類の父親のような存在として提示し、何億人ものキリスト教徒がお互いを兄弟姉妹として見るように促し、家族の一体感を作り出しました。そのため、例え2人の見知らぬユダヤ人が初めてどこかで出会っても、彼らは同じ家族に属し、エジプトで奴隷として一緒にいたり、で一緒にいた過去をすぐに共有することができるのです。
歴史上の大きな物語のほとんどは、感情の投影と希望的観測の結果です。
その物語は、宗教やイデオロギーを普及させる上で重要な役割を果たし、実際、イエスの物語は、膨大な数の人たちの心をつかみ、長い時間を経た今でもつかみ続けているのです。
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情報の進化とポピュリズム
ポピュリズムと情報伝達の関係も深く絡み合っています。
ポピュリズムは、一部のエリートの人たちや知識人などの「主流」の人たちや既存の勢力ではなく、一般の大多数の人たちに訴えかける政治的アプローチです。
ポピュリストは複雑な事実ではなく、物事を単純化し、感情的でドラマチックな分かりやすい物語を広めます。反エリートを煽り、専門家への不信感を表し、感情に訴え、大衆を動員します。彼らは複雑な問題をも単純化して、「善」と「悪」の戦いに置き換えます。
ポピュリズムは、情報伝達によって大きく形作られます。情報は真実に関するものではなく、権力や社会的影響力の拡大のために利用されます。
ポピュリストのリーダーや運動は、客観的な現実ではなく、人の感情、恐怖、欲求に訴える情報を広めることがよくありますが、事実を提示することよりも、できるだけ多くの支持者を集めること、その絆を強化することに重点が置かれているからです。
また、従来のメディアを迂回して支持者との直接的なつながりを確立しようとする傾向があります。そのために、より直接的でフィルタリングされていないコミュニケーションを使用します。
さまざまな歴史上の情報革命(文字、印刷、テレビ、インターネット、ソーシャル メディア)が政治情勢を繰り返し変え、 それぞれの時代で、次のような新しい形のポピュリズムを可能にしてきました。
1.印刷機と初期のポピュリズム (15世紀~19世紀)
15世紀の印刷機の発明により、大衆の識字能力が高まり、広範な情報交換が可能になりました。これによって、官僚に対する異議を唱える過激な思想が広まりました。
2.プロテスタント・宗教改革 (16世紀)
マルティン・ルターは印刷されたパンフレットを使ってカトリック教会に異議を唱え、「民衆」に直接訴えました。
3.フランス革命とアメリカ革命 (18世紀)
大衆の識字率の向上により、君主制と貴族制に反対する革命的なポピュリストが可能になりました。
4.マスメディア (ラジオ、テレビ、新聞:20世紀)
ラジオとテレビの普及により、指導者は知識階級のエリートを迂回して、何百万もの人たちに直接語りかけることができるようになりました。
5.ファシズムと全体主義的ポピュリズム
ヒトラーやムッソリーニのような指導者は、ラジオ放送やプロパガンダ映画を使って大衆の民族主義的感情をかき立てました。
6.米国の政治的ポピュリズム
ヒューイ・ロング (1930 年代) やドナルド・トランプ (2016~2020 年、2025年~) のような指導者は、メディア (ラジオ、テレビ、X) を駆使して情報を操作し、自らを「反エリート、庶民の擁護者」としてアピールします。専門家や科学を拒否し、自分自身の現実を植え付けています。
7.インターネットとソーシャル メディア: デジタル時代のポピュリズム (21 世紀)
ソーシャルメディア (Facebook、X、YouTube、TikTok など) は、従来のジャーナリズムを迂回して、直接的でフィルタリングされていないメッセージの送受信を可能にします。しかも、それが世界中どこでも一瞬で実行されるグローバルネットワークを構築しました。
ソーシャルメディアは、感情的で簡素化されたメッセージの送受信を、これまで前例のない速度と規模で、24時間一時も止まることなく可能にすることで、ポピュリズムを増幅しています。その弊害として、正しい情報を広めるよりも、過激な情報や感情的な情報を広めることを加速させています。
以上のように、新しい情報ネットワークは、常に新しいポピュリストを生み出すのです。
ハラリの懸念は、ポピュリストのリーダーがしばしば、国民を代表すると主張しながら、バランスを損ない、反対派を黙らせ、多元主義を拒否することです。
彼は、AI と情報システムを規制しなければ、ポピュリズムが全体主義に進化し、政府や企業が前例のない規模で大衆の行動を操作する恐れがあると言います。ポピュリズムが必然的に全体主義につながるとは言っていませんが、特定のポピュリズムは民主主義を蝕み、独裁主義や全体主義的な統治を可能にする危険性があると警告しています。
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現代のポピュリズムを支えるデジタルプラットフォームの特徴
聖書が宗教的情報が集約された文書として機能したおかげでキリストの教えが広まったのは、今日のデジタルプラットフォームがイデオロギーの物語を広めるのとよく似ています。
媒体は変化しましたが、情報の普及と力学は共通しています。
現代のソーシャルメディアを中心とした情報ネットワークは、感情と単純化された物語を増幅し拡散するようにプログラムされているため、ポピュリストが使うツールとしてこれ以上都合のよいものはありません。
大衆は、難しい議論よりも、感情的で単純化された刺激的なメッセージに惹きつけられます。
さらにソーシャルメディアには私たちに内在する偏見を強化するアルゴリズムが組み込まれているため、感情化、単純化をさらに増強し、私たちをより極端かつ過激にします。
YouTube、TikTok、Googleなどに組み込まれているAI 駆動型推奨システム) は、「真実を表現する」のではなく、「アプリの利用を最大化」すること、「利用者のオンライン滞在時間を長くすること」を目的としており、エコーチェンバーを作り出し、偏見を強化します。ポピュリストにとってはとても便利で強力なツールです。
例えば、情報発信者の作為による偽情報やフェイクニュースは、事実に基づく報道よりも速く多くの人たちに広がります。強い感情的反応と社会的つながりを生み出すからです。間違っているがより刺激的な情報の方が、正確だが地味な情報より人を引き付けるのです。
大衆は真実を知ることに興味がないのです。真実を見るのではなく、見たい現実を作り出し、それだけを見ておきたいのです。
現代のポピュリズムの代表は、いうまでもなくドナルド・トランプです。
彼はX(旧Twitter)を広く利用して従来のメディアを迂回し、直接的な支持を集めます。新しい情報チャンネルを利用して「主流メディアは嘘をついている」「真実を語っているのは私だけだ」「エリートは腐敗している」などと主張しますが、それが受け入れられることが容易になっているのです。
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さいごに
以上、ユヴァル・ノア・ハラリの「Nexus: A Brief History of Information Networks from the Stone Age to AI(邦題)NEXUS 情報の人類史:人間のネットワーク」を紹介しましたが、紹介したのは書籍のごく一部です。興味がありましたら、ぜひ本をお手に取って読んでみてください。
ハラリ曰く、情報の価値は、客観的な正確さではなく、人を結びつける力にあります。大衆は真実に興味がなく、現代のAIを含めたデジタル技術は、真実よりもそれぞれが望む信念を形作る手助けをします。操作され歪曲された情報が世の中に拡散される方が、都合がよい人たちがたくさんいるのです。誤った情報が秩序を維持するために使用され、多くの事実や真実が犠牲にされています。
本書は、歴史の振り返りと未来への警告の両方として機能し、情報システムが単なる表現を超えて世界をどのように形作るかを考えるよう私たちに促しています。
現代のデジタル技術が、人間の心理的脆弱性を悪用できることを警告する一方で、私たちはその技術を自分たちの幸せを高めるのに役立つように使うこともできます。
ハラリは、情報には、善と悪の両方の側面があると書いていますが、実は、情報のみならず、すべての物事には善と悪の両方の側面があります。
私たちは、感情に流されるのではなく、自分自身を知り、知恵と高い道徳性や倫理性を持つ必要があります。しかし、AI やソーシャルメディア云々と言う前に、そもそも道徳的価値や倫理的価値は私たちの社会が失いつつあるだけでなく、むしろ現代の社会では向き合うことが積極的に避けられているようにも感じています。
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さて、最後の最後に、私自身についていえば、おそらく私はポピュリストと反対の指向を持っていて、大衆の関心を引いたり、迎合しようとしていないだけでなく、時に多くの人たちにとって耳の痛い情報も書いています。そして、今後もそのような情報を書き続けるでしょう(笑)。
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