「自己が主で、他は賓である。」夏目漱石の言葉です。自分の存在を尊重すると同時に、他人の存在を尊重することです。他人に流されない自分を確立する一方で、他人の考え方を認め、他人にもその人自身でいさせておくのです。
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はじめに
以前このサイトで「集団主義というより、同調主義、事なかれ主義、利己主義、超個人主義」というタイトルの記事を書きました。
個人主義が強い欧米諸国とくらべて、日本は集団主義の国とよく言われますが、今の日本を見ていると、個人主義と集団主義の悪い所を掛け合わせたような、同調主義、グループ主義、事なかれ主義、世間体主義、自分主義、利己主義、超個人主義が絡み合った文化が形成されているように思える、、、という内容でした。
その後、アマゾンで何かの本を買おうとしている時に、ふと、夏目漱石の「私の個人主義」という本を見つけ、しかもそれが「ただ」だったので(青空文庫のものが利用されているようです)読んでみると、私が書いた内容と重なる記述が。。。
「私の個人主義」は、大正3年(1914年)に漱石が学習院の学生たちに向けておこなった講演を本にしたものです。100年以上も前の本なのに「今の時代にも完全に通じるじゃないか!」と思うのと同時に「人はこんなにも変わらないんだなぁ、、、」と痛感させられる本です。
ということで、今回は、この本を紹介します。今まで日本人が書いた本を取り扱ったことは一度もないはずなので、記念すべき初の日本人作家の書籍紹介でもあります(パチパチ)。
なお、この本、高校の国語の教科書になっているようですが、どの部分が教科書に引用されているのかは不明です。
しかし、高校生のみならず、大人でも読む価値があります。短いのですぐ読み終わることができます。また、私は夏目漱石のファンではなく、それまで読んだことがあるのは「こころ」くらいです。という前提で、漱石の個人主義に特化した紹介ということで、お付き合いください。
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集団主義と個人主義
私は以前の記事でこう書きました。
『私は以前アメリカで働いていたことがありますが、当時、ここはアメリカだから、自由の国だから、と個人主義を勘違いして、他人への敬意なく、自分勝手に振舞う日本人に出会ったことがあります。
個人主義には「他の人たちも同じ個人として認める」、「個人的な意見が求められ、尊重される」背景があります。つまり、他人に対する敬意があります。個人主義は、それぞれの自立を前提にした行動の自由であり、自分の意見や権利を主張するだけでなく、他人の意見や権利も尊重するのです。
日本で捉えられている個人主義は、「自分の自由」だけが強調されて解釈されているように感じます。それによって他人がこうむる不自由にはお構いなしです。在米中には、日本人よりもむしろアメリカ人の方に、人への配慮を感じたことさえありました。
個人主義的な教育を受けた欧米人は、自分勝手に振舞うのではなく、自分の利益のために他人と協調的に取り組みます。これに対して、私たち日本人は、個人主義を曲解したり、時に集団の力を悪用して、個人主義的な人たちよりも利己的で身勝手な超個人主義的な行動をとるのです。』
漱石も、書籍の中で同じようなことを書いています。以下はその要約です。
『イギリスという国は自由を尊ぶ国で、自由を愛する国でありながら、秩序も行き届いています。日本は比較にもなりません。
しかし、彼らはただ自由なのではなく、自分の自由を愛するとともに他人の自由を尊敬するように、こどもの頃から教育を受けているのです。彼らの自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。彼らの自由と表裏して発達して来た深い根柢をもった思想に違いないのです。』
義務心を持っていない自由は本当の自由ではありません。自分が他人から自由を享有している限り、他人にも同程度の自由を与えて、同等に取り扱わなければなりません。わがままな自由は自由ではないのです。
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不満があっても行動に移さない日本人
さらに、漱石はこうも書いています。
『イギリスの人たちは不平があるとよく示威運動をします。しかし政府はけっして干渉がましいことをせず、黙って放っておきます。その代り、示威運動をやる方でもちゃんと心得ていて、むやみに政府の迷惑になるような乱暴は働かないのです。』
漱石が書いていることとは少しずれますが、わたしがこの記事を書いているのは、2023年10月、世の中では物価高がじわじわと進んできています。しかし、モノの値段は上がってきていますが、賃金の上昇はまだそれに追いついていません。植田和男日銀総裁は賃金上昇が確認されるまでは量的緩和を継続すると言っています。
物価高は日本だけでなく世界的に進行しています。そして、欧米のみならず、中東やアフリカなど世界各地で物価高に対する市民によるデモがおこなわれています。しかし、日本ではそのようなデモがおこなわれたというニュースを聞くことはありません。
日本以外の多くの国では、不満がある時には、行動で変化を要求するのに対して、日本人は、そのような行動を起こしません。
海外に比べて、まだそれほど物価高が深刻ではないのかもしれませんが、私には、日本人は、自分で行動に起こして主張したり要求することができず、「私はこんなにつらいんです。なんとかしてください」と、貧窮を訴えてお上にすがる、または、不平不満をならべて誰かが事態を改善するのを待つ、というスタイルのように感じます。
つまり、他人に何とかしてもらうというスタンスです。しかし、結局、お上は何もしてくれないため、じわじわと自分がおかれた状況が悪化していくのです。
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他人本位と自己本位
漱石は、本の中で「他人本位」という言葉を使っています。日本人の「自分では行動に起こさない、自分でイニシアティブを取らない」スタイルは、この「他人本位」にも通じます。
漱石いわく、他人本位とは「自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でも、そうだとしてしまういわゆる人真似を指す」ものです。
多くの人たちは、自分で行動に起こせないどころか、ものごとの判断さえ自分でできず、他人の判断を聞いてからでないと自分の意見さえ言えないのです。
近代以降、我が国の大きな変化は外圧(外国からの圧力)によって達成されてきました。
黒船来航から文明開化、戦後復興、安全保障、働きすぎの是正まで、多くの国内の問題が外圧によって改善されてきました。
漱石は別の書籍「現代日本の開化」の中で「西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である」と書いていますが、日本人にとって変化は、主に、自分の内から発生するものではなく、外からもたらされるものなのです。
漱石は「他人本位」に対して「自己本位」という言葉を使います。そして「自己が主で、他は賓である」べきだと言います。
まず「自分が主である」という感覚を取り戻すのです。
他人が引いたレールを進むのではなく、自らの意思で道を切り開くのです。自己本位になったからといって、すべてが上手くいくとは限りません。しかし、自分の下した判断なので納得して進むことができます。
そして「他人を賓とする」、つまり、自分の存在を尊重すると同時に、他人の存在を尊重するのです。
私たちは自分を発展させる過程で、自他の区別を忘れて、周囲の人たちを自分の仲間に引き摺ずり込もうとしますが、そうではなく、他人の考え方を認め、他人にもその人自身でいさせておくのです。
多くの人は自分の意見を尊重するように主張しながら、他人の意見は認めないという矛盾をはらんでいるのです。
このように、「自己本位」は、自分勝手な振る舞いでも、自己中心的な考え方でもありません。自分が自由を求めるのと同時に、その自由を他人にも与えなければならないのです。
特に権力やお金を持っている人たちは気を付けなければなりません。権力や金力を持ち、かつ他人の自由を尊敬できない人たちは、とても危険だからです。権力は、自分の意見を他人の頭の上に無理やり押し付ける強力な道具であり、金力は、他人を誘惑し迎合させるための強力な道具だからです。
それを防ぐためには、権力や金力を持つ前に、その責任と義務を理解する人格を持たなければなりません。
もし人格のない人が自分を発揮しようとすると、他人を妨害し、権力を用いようとすると、濫用に流れます。金力を使おうとすれば、社会に腐敗をもたらします。こうした弊害は、人格がないのに、力を得るから起きるのです。
私たちは自分の行くべき道を進み、それと同時に、他人の行くべき道を妨げないので、ある時には、ばらばらにならなければなりません。漱石は「そこが淋しい」と書きます。
しかし、集団から離れられない人たちは「槙雑木でも束になっていれば心丈夫」なので、みな束になって同じ道を行くのです。
ある時には、人は、淋しい心持ちがしても、1人ぼっちで進まなければならないのです。
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さいごに
夏目漱石は、明治44年(1911年)の「中味と形式」で、次のように書いています。
『現在の日本の社会状態は、目下非常な勢いで変化しつつある。我々の内面生活もまた、刻々と非常な勢いで変りつつある。瞬時の休息なく運転しつつ進んでいる。
だから今日の社会状態と、20年前、30年前の社会状態とは、大変趣きが違っている。我々の内面生活も違っている。
それを統一する形式も自然ズレて来なければならない。もしその形式をズラさないで、元のままに据えておいて、その中に我々の変化しつつある生活の内容を押込めようとするならば失敗するのは眼に見えている。
昔の型を守ろうと云う人は、それを押潰そうとするし、生活の内容に依って自分自身の型を造ろうと云う人は、それに反抗すると云うような場合が大変ありはしないかと思うのです。
型に背かないで行雲流水と同じく極めて自然に流れると一般に、我々も一種の型を社会に与えて、その型を社会の人に則らしめて、無理がなく行くものか、あるいはここで大いに考えなければならぬものかと云うことは、あなた方の問題でもあり、また一般の人の問題でもあるし、最も多く人を教育する人、最も多く人を支配する人の問題でもある。』
繰り返しになりますが、100年以上も前の文章とは思えないほど、漱石の言葉は現代に重なります。
結局、私たちは同じような状況に直面し続け、同じようなことを繰り返し考え続けているのです。