You are currently viewing 私たちに自由意志はあるのか?~決定論と自由意志と道徳的責任

私たちに自由意志はあるのか?~決定論と自由意志と道徳的責任

  • 投稿カテゴリー:社会が変わる
  • 投稿の最終変更日:2025年3月16日
  • Reading time:11 mins read

私たちは自分の行動を、自分の意思で決めていると考えがちですね。しかし、脳科学には私たちの自由意志を完全否定する研究結果があります。それでもなお、例えそれが幻想であっても自分には自由意志があると信じた方が、人生も社会もうまくいくかもしれません。一方で、自由意志がないと信じる方がうまくいくという考え方もあります。

~ ~ ~ ~ ~

はじめに

私たちは自分の行動を、自分の意思で決めていると考えがちですね。

自由意志(free will)」とは、さまざまな選択肢の中から、取るべき行動を、過去の経験や外的要因に捉われず、自分の意志で自由に決定する能力のことです。

自由意志は本当に存在するのでしょうか?

それは古代ギリシャ哲学から現在にいたるまで長く続く議論です。近年、科学技術の発達による様々な研究結果によって新たな事実が明らかになってきており、哲学以外の分野でもその存在を認める人たちと否定する人たちがいます。

このサイトでもそのような議論を今まで幾度か紹介してきました。今回は、自由意志を取り巻く専門家の様々な主張を紹介し、その違いを説明します。

~ ~ ~ ~ ~

1.決定論(Determinism)

まず最初に決定論(Determinism)を紹介しましょう。自由意志とよく対比されて説明されるのが決定論です。

決定論とは、私たち人間の行動を含むすべての出来事は、それ以前に起きた出来事によって引き起こされるという考え方です

決定論には、すべての出来事は、自然法則に従って、先行する出来事によって引き起こされる「因果決定論」と、遺伝的要因や生理学的要因によって形成される「生物学的決定論」、社会的および環境的要因が人間の行動を決定する「環境決定論」があります。
なお、神がすべての出来事を決める「神学的決定論」もありますが、現代では一般的な考え方ではありません。

ただし、決定論を支持する人たちすべてが、自由意志を否定するわけではありません。

決定論には、ハード決定論(Hard Determinism)ソフト決定論(Soft Determinism)という異なる考え方があります。どちらも、私たちの行動は上記のような要因に従って決定される点では一致していますが、自由意志の解釈が異なります。

(1) ハード決定論(Hard Determinism)

ハード決定論は、自由意志の存在を完全に否定します。今説明したように、決定論によれば、すべては過去の出来事や物理的な法則によって決定されますが、ハード決定論はさらに、人間が自分の意思をもって行動を選択しているという考えは幻想にすぎないと信じます

例えば、あなたは週末遊びに出かけようと考えていましたが、それを取り止めて、家に残って学校の宿題を終わらせることにしたとしましょう。ハード決定論者は、この決定は、すべて過去の経験、生物学的影響、外的要因などによって下されたものであり、あなたの意志ではないと主張します。

また、あなたがある人の発言にかっとなって、ついその人を叩いてしまったとします。しかし、ハード決定論者は、それもあなたが選んだ行動ではなく、過去の経験によって引き起こされたものなので、あなたには相手を叩いたことに対する道徳的責任もないと考えます。

「自分の意志がまったくないなんて、そんな馬鹿なことありえるかよ!自分はちゃんと考えて行動しているよ!」と否定したくなる方はたくさんいるでしょう。

そのような方は以前書いた記事「書籍紹介:Determined 行動は過去によって決められる」をご覧ください。
自分が生まれる前のはるか遠い昔から、生まれ出た場所や環境や両親、さらには昨日起きた出来事や、数分前、数秒前の出来事も含めて、いかに過去の出来事が自分の今の行動を決定したか、その考え方の一端が理解できるかと思います。

(2) ソフト決定論(Soft Determinism)

ハード決定論が自由意志を完全否定する一方で、ソフト決定論は自由意志を否定しません。
ハード決定論者も、ソフト決定論者も、決定論を支持する点では同じです。しかし、ソフト決定論者は自由意志を完全否定はしません。

ソフト決定論者は、行動が内部の欲求や考えと一致しているとき、そこに選択する自由が存在していると考えます。たとえ、その欲求や考えが過去の出来事や因果関係、環境によって形作られたものであっても、無意識のうちに意思決定が始まったとしてもです。

すこし難しいので、先ほどの例で説明しましょう。

あなたは週末遊びに出かけようとしていましたが、それをやめて、家に留まって学校の宿題をすることにしました。

ハード決定論者も、ソフト決定論者も、この選択は事前に決まっていると言います。つまり、遺伝や両親の教育方針によって勉強が大事だと頭に植え付けられたこと、学歴社会の中でつちかわれた良い成績を取りたいという願望などの様々な要因の積み重なりが、あなたに宿題をするという選択肢を取らせたのです。

しかし、ソフト決定論者は、勉強するという選択は避けられないものであったとしても、あなた自身が宿題を終わらせたいと望んだので、遊びに行かずに勉強するという選択肢を取ったのであり、その選択はあなたの願望や動機と一致していると考えます。両親や先生や同級生など他人からの強制ではなく、あなたの内的要因が決断したから、自由意志で行動したと考えるのです。

つまり、自由意志に対する解釈そのものがハード決定論者とは異なっているのです。あなたは外的に強制されたり強要されたりしていないので、その行動はある意味で「自由」なのです。ソフト決定論者にとって、自由意志は、決定論の範囲内で存在するのです。

道徳的責任に関して言えば、ハード決定論者が人に一切の道徳的責任はないと考える一方で、ソフト決定論者は、外的な制約がなく、自己要因によって行動を決断している限り、社会的、法的に道徳的責任があると考えます。たとえある犯罪願望が過去の出来事の積み重なりによって導かれ、そのような行動をするような人間に育てられた結果であったとしてもです。

なお、ソフト決定論は、決定論と自由意志の両方を認めているため、両立論(Compatibilism)とも呼ばれます。両立論は、「自由意志と決定論は共存可能であり、お互いに矛盾することなく両方を信じることが可能」という考え方です。

~ ~ ~ ~ ~

2.リバタリアニズム(Libertarianism)

リバタリアニズム(Libertarianism)は、ハード決定論ともソフト決定論(両立論)とも異なる立場をとります。リバタリアニズムは自由意志論とも呼ばれ、人間には真の自由意志があり、過去の出来事や自然法則によって完全に決定されていない選択をすることができると信じます。そのため、決定論は誤りであると主張します。また、人間は自由意志を持っているので、道徳的責任を負うと考えます。

なお、ここで言うリバタリアニズムは、政治思想としてのリバタリアニズム(完全自由主義、自由至上主義)とは異なります。

リバタリアニズムにはさらに大きく2つの考え方がありますが、この辺からちょっと理解するのが難しくなります(すでに難しい?汗)。

(1) 行為者因果リバタリアニズム(Agent-causal libertarianism)

1つ目の考え方は「行為者因果リバタリアニズム(Agent-causal libertarianism)」と呼ばれるもので、あなたが決定を下すとき、それは過去の出来事によって引き起こされるのではなく、行為者(エージェント)であるあなたによって引き起こされるという考え方です。

例えば、手を上げるところを想像してください。行為者因果関係を信じるリバタリアンは、あなたが自由に手を上げたのであり、脳の無意識の反応や過去の影響が引き起こしただけではないと言うでしょう。

ただし、「行為者(エージェント)」とはいったい何なのかが明確でなく、それを科学的に証明できないのが、この考え方の弱点です。

(2) 出来事因果リバタリアニズム(Event-causal libertarianism)

2つ目の考え方は「出来事因果リバタリアニズム(Event-causal libertarianism)」と呼ばれるもので、一部の出来事(人間の決定を含む)は、過去のイベントによって決定されるのではなく、ランダムまたは確率によって発生するというものです。

例えば、コインを投げるところを想像してみてください。

表がでるか裏が出るかは分からないですよね。それと同じように、人間の決断も、過去の出来事の影響を受けるものの、ランダムの要素や不確定性があり、それによって自由意志が可能になるという考え方です。

別の例として、紅茶とコーヒーのどちらを注文するか考えているところを想像してください。

決定論の世界では、遺伝性や過去の好み、習慣、その直前の脳の状態など様々な要因の組み合わせから、コーヒーを選ぶことが決定されます。そこにあなたの意思は存在しません。

わたし自身も、紅茶はほとんど飲まず、コーヒーばかり飲んでいます。しかし、ごくまれに紅茶を飲むことがあります。出来事因果のリバタリアンの考えでは、脳神経レベルでわずかなランダム性があり、実際にどちらを選ぶかはあなた次第で、選択は完全に予測可能ではありません。

しかしこの見解、少しおかしいところがあると思いませんか?

もし意思決定がランダムに偶然に起きるのであれば、それは運であり、自分がコントロールしていないことを意味するのではないでしょうか?つまり、自由意志があることの証明ではなく、自由意志がないことの証明になるのではないでしょうか?

実際、これが出来事因果が否定される理由の1つでもあります。

ただし現代では、出来事因果は、行為者因果よりも一般的です。これは、出来事因果の方が現代科学や理論とよりよく一致するからです。逆に行為者因果は科学によって十分に説明できません。

~ ~ ~ ~ ~

3.非決定論(Indeterminism)

次なる概念を紹介しましょう!
次は非決定論(Indeterminism)です。

非決定論とは、すべてのイベントが過去の出来事や物理法則によって決定されるわけではないという、決定論と対比される考えです。この考えでは、ある出来事は、ランダムまたは確率的に発生します。

「あれ?さっき説明した出来事因果リバタリアニズムと同じじゃないの?」と思うかもしれません。

しかし、非決定論とリバタリアニズムは関連していますが、同じではありません。非決定論は、すべての出来事が前の原因によって決定されるわけではないという、リバタリアニズムを含むもっと広い概念です。

リバタリアニズムは、人間の選択は過去の出来事や因果関係の必然性によって決定されず、自由意志が存在すると主張する、非決定論の中の1つの考え方です。よって、すべての非決定論者が自由意志を支持するわけではありません。

面白いのは、哲学と科学の結びつきですね。例えば量子力学です。
決定論を否定するためには、過去の出来事によって決定されない事例があることを証明するのが効果的です。それを証明するために、量子力学の分野の、放射性崩壊や、「ゆらぎ」の限界などを持ち出して、不確実性が存在することの証明とし、それによって過去の出来事によって決定されない事例がある根拠とするわけです。

量子力学におけるランダム性によって非決定論を支持する人たちが、必ずしも自由意志を信じているわけではありません。この点から、非決定論は出来事因果リバタリアニズムと違います。

~ ~ ~ ~ ~

4.非両立論(incompatibilism)

さきほど紹介した両立論(Compatibilism)の反対は非両立論(incompatibilism)と呼ばれます。そろそろ混乱してきたかもしれませんが説明を続けます。。。(汗)

両立論は、決定論と自由意志が両立することを認めています。
非両立論は、決定論と自由意志が両立することを認めていません。

そのため、非両立主義には、ハード決定論とリバタリアニズムが含まれます。
ハード決定論とリバタリアニズムは自由意志が存在するかしないかという点ではお互いに対立する概念ですが、自由意志と決定論は相容れないと主張する点ではどちらも同じだからです。

なお、最近の非両立論は、両立論を否定しつつも、従来の議論のように決定論の否定に焦点を合わせるのではなく、決定論の枠組みを超えて、先ほども紹介したような最新の科学技術を利用した研究を通して、科学的、心理学的な立場から、自由意志に対しても疑問の目を向けています。

いわゆる、ポスト古典型、現代型の非両立論です。

古典的な非両立論者は「決定論が真実なら、自由意志は不可能だ」と言います。あるいはリバタリアニズムのように「決定論は真実ではなく、自由意志は存在する」と言います。しかし、より最近の非両立論者は、科学的見地などを取り入れ「決定論が偽りだとしても、自由意志は依然として存在しない」と言うのです。

~ ~ ~ ~ ~

5.ハード非両立論(hard incompatibilism)

さいごにダメ押しです(笑)。

そのような、たとえ決定論が正しかろうが誤りであろうが(ランダム性や不確定性のため)、それでも自由意志は存在しないという非両立論は、ハード非両立論(hard incompatibilism)と呼ばれます。

決定論が真実なら、すべての出来事(私たちの選択も含む)は完全に以前の出来事によって引き起こされます。つまり、私たちは自分の行動を最終的に制御できず、自由意志もありません。

非決定論が真実なら、いくつかの出来事はランダムに発生します。しかし、ランダム性は私たちにコントロールを与えるものではなく、偶然さがもたらすだけです。私たちの選択がランダムであれば、それは意味のある「自由」ではありません。

決定論と非決定論の両方が自由意志の存在を証明できないため、ハード非両立論者は自由意志は存在しないと結論付けます。

そのような非両立主義者の一部は、決定論も、自由意志も否定します。つまり、さきほど紹介した量子力学のランダム性などに基づいて決定論を否定するとともに、脳科学の研究結果による潜在意識のプロセスに基づいて、自由意志も否定するのです。

脳科学の分野では、私たちが意識的に何かを決定する前にすでに脳がその行動を決定していることを証明する研究結果があります。つまり、私たちがある行動をしようと意識する時、脳はすでにその行動の実行命令を下し終わっているのです。そのような最新の脳科学の研究は自由意志を否定します。さらに言えば、私たちの意識が、行動に対する間違った理由を後付けしていることすらあります。

先ほど触れた書籍「Determined」の著者であるロバート・サポルスキー(Robert Sapolsky, 1957 -)は、私たちが取ろうとする行動は、すでに過去に起きたことに決定づけられていると決定論を主張し、かつ、人間には自由意志が存在せず、決定論と自由意志は両立しないと主張するハード非両立主義者です。

サポルスキーによれば、自由意志を信じる人は、映画の最後の3分だけを見てすべてを理解しているつもりになっているだけです。彼は、私たちの行動は、すでに過去に起きたことに決定づけられていて、人間には自由意志は存在しないと主張します。

ロバート・サポルスキーは、脳科学、遺伝学、生物学的観点や環境要因によってハード非両立論を支持しますが、哲学的観点からハード非両立論を支持するのはデルク・ペレブーム(Derk Pereboom, 1957 -)です。

サポルスキーが自由意志を完全否定する一方で、ペレブームは文脈によります。

ペレブームは、「自由意志」が従来的に「外部からの強制なしに自発的に行動すること」を意味するのであれば、自由意志を認めません。しかし、「自​​由意志」が「私たちが自分自身の行動に最終的に責任を負う能力」を意味するのであれば、自由意志を認めます。

両者の主張の強弱の違いはありますが、どちらも修正主義的な立場をとっており、非道徳的行動に対して、非難や報復や懲罰などではなく、更生(リハビリテーション)や予防、人間関係の改善に焦点を当てた前向きなアプローチが必要だという点では一致してします。

人は過去を変えられません。しかし、周囲の人たちが介入することで将来を変えることはできます。つまり、将来から見た過去を変えるのです。

単に道徳的に問題のある行動やそれを引き起こした人だけを責めたり罰していては問題の解決にはなりません。その問題行動は、その人がコントロールできない要因によって引き起こされたからです。将来そのような有害な行動をどう抑制するか、更生や教育や抑止など、前向きなアプローチが必要だと主張します。

~ ~ ~ ~

以上、自由意志や決定論に関わる5つの考え方(細分化するともっと多いですが)を紹介しました。それぞれの主張を表にまとめると次のようになります。

図:自由意志や決定論に関わる理論の①決定論、②自由意志、③道徳的責任に対するスタンス

~ ~ ~ ~ ~

さいごに

ふう!以上、皆さん多少なりともご理解できたでしょうか?

今回の説明でも触れたように、自由意志と道徳的責任は密接にリンクしています。自由意志がなければ個人の道徳的責任は問えないからです。

不遇な人生を送る人たちの多くは、その人がコントロールできる物事をはるかに超えたところで、そのような不幸な結果にたどり着いてしまっています。その結果をすべてその人だけのせいにして責任を押し付けるのはあまりに酷かもしれません。

~ ~ ~ ~

すこし前(2024年12月)に、TBSの番組「報道特集」で、子供への性加害の問題を取り上げ、幼少期の家庭環境に起因する小児性愛障害を持ち、子供たちへの性加害を繰り返してきた加藤孝さんを紹介していました。今、加藤さんは、加害者の立場から、実名・顔出しで、性被害の問題解決に向き合っています。

もちろん、性被害を受けた子どもたちの将来への影響は甚大です。

以前書いた記事「書籍紹介:身体はトラウマを記録する The Body keeps the Score」でも紹介したように、子供たちが受けるトラウマの影響は深刻です。被害者が受けた傷は計り知れません。そして、その被害者には何の罪もありません。

この本の著者で、精神科医であり脳科学者であるベッセル・ヴァン・デア・コーク(Bessel van der Kolk、1943 – )は、小児期のトラウマを「隠れた伝染病」と表現しています。小児期のトラウマは、がんや心臓病よりもコストが高い最大の社会問題であり、早期の予防と介入によって防がなければならないと警鐘しています。

被害者は、加藤さんのような加害者に出会っていなければ、性被害を受けることはありませんでした。
しかし、加害者の加藤さんも、過去に出会った人たちが違っていれば、加害者になることはなかったのです。

加藤さん自身、幼少期の家庭や学校での問題から、小児性愛に傾倒していきました。

誰も自分の自由意志で今の自分になったわけではありません。むしろハード非両立論者の立場からすれば、自由意志の余地はまったくありません。

単なる加害者の処罰は根本的な解決にはなりません。加害者が加害者となった背景をたどっていかない限り、問題の根本的な解決にはつながりません。加害者を生み出した社会的な問題に向き合わない限り、次なる加害者と被害者は必ず次から次へと生まれていきます。

ペレブームは、自由意志を否定すると怒りや罰したいという欲求が減り、個人的な人間関係の改善や、社会的な利益をもたらす可能性があると主張しています。この点において、彼の立場は、自由意志を否定すると人間の生活の質が向上すると、哲学書の名著「エチカ(倫理学)」の中で主張した17世紀の哲学者スピノザ(Baruch Spinoza, 1632 – 1677)に共通しています。

そう考えると、私たちはすべての人にもっと思いやりと温かさをもって接することができるかもしれません。そして、より多くの人たちがそう考えることができれば、お互いにもっと優しい社会や未来志向の社会を実現できるのかもしれません。

コメントを残す

CAPTCHA