私たちの経験は、事前の予測や期待に大きく影響されます。経験する前に情報を受け取る方が、経験した後に情報を受け取る場合よりも経験に強い影響を与えます。ネガティブな予測のトラップに引き込まれず、ポジティブな予測を利用することで、私たちは良い関係を築いたり、自分を高めることができます。
~ ~ ~ ~ ~
はじめに
今回紹介する内容は、心理学者で行動経済学者のダン・アリエリー(Dan Ariely)が2008年に書いたベストセラー「Predictably Irrational(邦訳版:予想通りに不合理)」(1)の第10章「The Effect of Expectations(予測の効果)」や、関連する彼の論文(2)を主に参照しています。
本書は、私たちの脳が繰り出す巧妙で強力なトリックを明らかにし、その結果、私たちがしてしまう非合理な意思決定の事例を数多く紹介するものです。私が本書(英語版)を最初に読んだのはだいぶ前になりますが、基本的にそれぞれの章が独立した内容になっているので、今でも時々気になる章を読み返したりしています。
~ ~ ~ ~ ~
予測や期待は私たちの経験を変える
学生たちに酢が数滴入ったビールを飲んでもらい、その味を評価してもらう実験が行われました。
ある学生たちはビールを飲む前に酢が入っていると聞かされ、別の学生たちはビールを飲んだ後に酢が入っていると聞かされます。残りの学生たちは酢のことは後にも先にも何も聞かされませんでした。
実験では、酢が入っていると先に知らされた学生たちより、後から知らされた学生たちの方が多くビールがおいしいと答えました。
なぜでしょうか?
ビールを飲む前に酢が入っていると聞かされた学生たちの頭の中には、その時点で「このビールはおいしくないだろう」という予測が頭の中にインプットされるからです。そして、実際に飲んだ時の味覚経験をその予測と結び付けるのです。
一方で、事前に情報を与えられなかった学生たちは飲んで純粋においしいと感じたため、その味覚情報から「このビールはおいしい」という評価をします。「このビールはおいしい」という知識が頭の中に確立されたため、後から実は酢が入っていたと聞かされようがもはや関係ないのです。実際、酢が入っていると前にも後にも知らされない学生たちと、事前情報を与えられなかった学生たちの結果は同じようになりました。(1)(2)
別の事例を紹介しましょう。
ワシントンポスト紙が、世界的なバイオリニストのジョシュア・ベル(Joshua Bell)に、朝のラッシュアワー時に地下鉄駅構内で大道芸人のようにバイオリンを演奏するよう依頼しました。
彼は43分間そこで演奏しましたが、98%の人たちは彼の前を素通りしました。演奏を終えてベルが通行人から得たのは32ドルだけで、立ち止まって彼の演奏を聴いたのは、クラシック音楽に詳しい人、前日の夜にたまたまベルのコンサートを観に行った人、自身がバイオリン演奏者である人、そしていつもの大道芸人とはレベルが違うと気づいた地下鉄の職員程度でした。
その他大勢の人たちは、誰も、こんな場所で世界トップクラスの演奏が聞けるとは予想しないのです。予測は、私たちの行動を決めるだけでなく、私たちの認知の仕方をも変えるのです。
なお、そのワシントンポスト紙のウエブ記事にはその時の映像も含まれていますので、興味がある方はこの記事へのリンクからご覧ください。
あなたは、抽象画や現代アートの絵画を見てそれが素晴らしいかどうか判断できないことはありませんか?しかし、専門家が素晴らしいと評価した後であれば、私たちはそれを素晴らしい芸術として鑑賞することができます。
さらに別の例を紹介しましょう。
あるビールの試飲テストで、銘柄のラベルが貼ってある場合の飲み比べでは自分が普段好んで飲むビールをおいしいと評価する傾向がある一方で、ラベルがない飲み比べでは、その傾向がなくなりました。(3)
コカ・コーラとペプシの飲み比べの宣伝広告は古くからたびたび見られますが、どちらのブランドか分かるラベルが貼られたコップで飲む場合と、ラベルのないコップでの飲み比べる場合を比較すると、それぞれの表示がある飲み比べの方がコカ・コーラの評価が高くなりました。(4)
fMRI装置を被験者に装着してみると、それぞれのケースで脳の異なる部分が活性化されることが分かりました。単にコーラが入ったコップを受け取ったときは、感情を取り扱う腹内側前頭前野皮質(ventromedial prefrontal cortex、vmPFC)が活性化されますが、コカ・コーラだという事前情報を得たときは、記憶や計画など認知的機能を取り扱う背外側前頭前皮質(Dorsolateral prefrontal cortex、dlPFC)がより活性化されたのです。つまり、コカ・コーラと知ってから飲む人は、飲む前にそのブランドを連想することで、その飲み物をよりおいしく感じるようになったのです。(1)
以上、紹介してきた事例が意味するのは、私たちの「知識」と「経験」は、ともに嗜好に影響を与えるものの、経験する前に情報を受け取る方が、経験した後に情報を受け取る場合よりも強い影響を与えるということです。人の食べ物や飲み物やその他の嗜好の判断は、感覚的な経験、つまり研究者たちが「ボトムアップ」と呼ぶプロセスだけでなく、脳からの「トップダウン」の解釈からも形成されるのです。
~ ~ ~ ~ ~
予測はスキーマを呼び起こし、先入観を生む
前回紹介したスキーマをこれらの事例に当てはめると、事前に情報を入力し知識を確立することでスキーマが形成されたとも言えます。スキーマは外部から入ってくる情報をできるだけ負荷なく、早く、効率的に処理するために、情報を単純化したり、分類したり、体系化してしておく、私たちの脳の仕組みによる知識構造です。
私たちが見たり聞いたりするものは、私たちの頭の中にあるスキーマを呼び起こし、先入観や固定観念を生み出します。
逆に言うと、先入観とは、経験を事前に予測することを目的とする、情報を分類するための方法でもあります。私たちの脳は、新しい状況に対していちいちゼロから対処することはしません。より効率的に処理するために、それ以前の経験をベースに判断するのです。つまり、先入観やステレオタイプ化は本質的には悪いものではありません。複雑で膨大な外部情報を早く理解し処理するための近道を私たちに与えてくれているのです。
~ ~ ~ ~ ~
予測は「する側」だけでなく、「される側」にも影響する
面白いのはこのような先入観やバイアス、ステレオタイプ化は、それを持つ人たちだけでなく、持たれる対象の人たちにも影響を及ぼすという点です。
例えば、アメリカでは、アジア系アメリカ人は数学や科学の分野に強いイメージを持たれています。一方で、一般的に女性はこの分野では不得意と思われています。では、アジア系アメリカ人の女性の場合は、どのようなイメージになるのでしょうか?
アジア系アメリカ人の女性を対象にした実験では、実験前に「アジア系アメリカ人」であることを強く意識させられた女性たちの方が、「女性」であることを強く意識させられた被験者たちより、高得点を取ることができたのです。(5)
~ ~ ~ ~ ~
予測がもたらす良い側面と悪い側面
予測や期待という認知バイアスが、スポーツ、政治、嗜好、他人との関わりなど、私たちの生活のあらゆる場面で様々な影響を与え、さらには、個人間のいざこざから国家レベルの紛争まで、ありとあらゆるコンフリクト(対立)の主たる原因になっています。
つまり、各々が違う情報をもち、その情報からそれぞれに異なる予測や期待や評価や結論を導いているのです。しかし、このような対立において、どちら側が紛争を始めたのかとか、どちら側が悪くてどちら側が正しいのかという議論に同意できる可能性はほとんどありません。私たちは自分がベースとしている情報とそれに基づく信念に強くしがみ、そこから離れられず、問題が大きくなるほど、「事実」について合意できる可能性はどんどん小さくなるのです。
では、私たちは物事を正確に評価するために、事前に何も予測や期待しないほうがいいのでしょうか?
理想的には、酢の存在を知らずにビールを飲むときのように、先入観なく本来の味を経験するのがよいのでしょう。民族間の争いや国際的な紛争に決着をつけるときも、同じような方法をとるべきでしょうが、過去に戻ってすべてをリセットし、事前情報が何もない状態に頭の中を巻き戻すことは不可能です。
また、一切の期待をせず、人生のあらゆる局面に臨むのは不可能です。私たちの脳は、新しい状況にまったく先入観なく入ることを望みません。複雑な世界と膨大な情報を判断するために、ある出来事に対して、無意識のうちに、私たちは何としてでも、個人的な経験などから先入観や既成概念を引き出し、何らかの予測をしてしまうのです。
先入観や既成概念を取り払うことは不可能かもしれません。しかし、大事なのは、自分を含めたすべての人が、偏った考え、バイアスを持っていることを理解し、その事実を受け入れることです。そのことを受け入れられれば、対立を解決できる糸口になります。
~ ~ ~ ~ ~
ネガティブな予測のトラップにはまらず、ポジティブな予測を利用する
概して、ポジティブな関連付けはポジティブな体験を、ネガティブな関連付けはネガティブな体験をもたらします。
人と人の対立や争い、否定的な体験には、私たちのネガティブな予測やバイアスが作用しています。少し時間をおいたりして、その予測やバイアスが本当に正しいのか客観的に捉えなおしてみることが大切です。行き過ぎたネガティブな予測や根拠のない期待を多少なりとも改めたり和らげることができれば、異なる人や国の間に良好な関係を築く大きな助けになるでしょう。
逆にポジティブな予測や期待は大いに利用すべきでしょう。つまり、何も期待しないよりも、ポジティブに期待することで、私たちは社会や世界に対する認識を改善したり、自分の能力を高めることに結び付けることもできます。
さらに、期待することで、楽しさも増します。ポジティブな期待を抱くことで、私たちは物事をもっと楽しむことができます。好きなバンドのライブに何も期待しないでライブの日が来るのを待つよりは、ポジティブな期待を持ってワクワクしておく方が、楽しさや嬉しさや満足感は高まります。私たちの世界観がもっと良いものに変わり、出来事に対する解釈もよりポジティブになるのです。新しい環境や不慣れな状況に対しても、ポジティブな期待を抱くことは、自己実現的な予言として作用し、実際にその状況をより楽しいものにするのです。
ただし、過度に楽観的な予測や、自分がコントロールできないことに対する根拠のない期待は、落胆や失望につながる恐れもあるので注意が必要です。実は、期待はとても複雑な思考であり感情です。また別の機会にそのことを紹介したいと思います。
~ ~ ~ ~ ~
さいごに
さいごに、ポジティブな予測や期待を関連付けることの成功例として、マーク・トウェインの小説「トム・ソーヤー」の有名なペンキ塗りのエピソードを紹介して今回は失礼します。
トム・ソーヤーはポリーおばさんに、悪さをした罰として、家の塀を白くペンキ塗りするよう命じられます。高さ9フィートの板塀が30ヤードも続いているのを目にしたとき、トムは深い憂鬱に襲われました。
しかし、彼にあるインスピレーションが沸きます。友人のベンが現れると、トムはとても楽しくペンキを塗りだします。その様子を見た友だちのベンは、興味を引かれ、やがてこう言いました。
「トム、ちょっと替わってあげようか?」
トムはベンに交代してもらおうと思いましたが、気を変えます。
「いやいや、それはちょっと無理だよ。ポリーおばさんはこの柵にひどくこだわるんだ。とても丁寧にやらなきゃいけない。できる子は1000人に1人、いや、2000人に1人だと思うね。」
ベン「ほんの少しでいいんだよ。僕が君ならそうさせるよ、トム。」
トム「でもシドもやりたがっていたのに、おばさんがダメって言ったんだよ。」
ベン「気をつけるよ。リンゴの芯をあげるから。」
トム「いや、ベン、だめだよ。」
ベン「リンゴを全部あげるから。」
結局、その日の終わりまでに、トム・ソーヤーは12人の少年たちにフェンスを塗ってもらい、トム自身は心ゆくまで遊ぶことができただけでなく、少年たちから様々なものまでもらったのでした。
Work consists of whatever a body is obliged to do. Play consists of whatever a body is not obliged to do.
仕事とは人に強いられるものであり、遊びとは人から強いられないものだ
~ マーク・トウェイン(Mark Twain)
~ ~ ~ ~ ~
参考文献
(1) Dan Ariely, “Predictably Irrational, Revised and Expanded Edition: The Hidden Forces That Shape Our Decisions”, Harper Perennial, 2010.
(2) Leonard Lee, Shane Frederick, Dan Ariely, “Try It, You’ll Like It – The Influence of Expectation, Consumption, and Revelation on Preferences for Beer”, Psychological Science, Volume 17 Issue 12, 2006/12.
(3) Ralph I. Allison, Kenneth P. Uhl, “Influence of beer brand identification on taste perception“, Journal of Marketing Research, Sage Publications, Inc., Vol. 1, No. 3, pp. 36-39, 1964/8.
(4) Samuel M. McClure, Jian Li Damon Tomlin, Kim S. Cypert, Latane M. Montague, P. Read Montague, “Neural Correlates of Behavioral Preference for Culturally Familiar Drinks”, Neuron, Vol. 44, 379–387, 2004/10.
(5) Margaret Shih, Todd L. Pittinsky, Amy Trahan, “Domain-specific effects of stereotypes on performance“, Self and Identity, Volume 5, Issue 1, 2006