私たちの身の回りは短期的な快楽を提供するものであふれています。それらは人生を豊かにするものではありませんが、気が付くとどっぷり抜け出せなくなっています。快楽と痛みの関係を理解し、自分に正直になり快楽と痛みのバランスを取り戻すことで、人生を豊かに生きることができます。
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はじめに
アンナ・レンブケ(Anna Lembke, 1967 – )は、精神疾患に関する研究で多くの受賞歴があるアメリカの精神科医で、スタンフォード大学の依存症治療センターのプログラムディレクターなど複数の役職を務めています。
今回紹介する「Dopamine Nation: Finding Balance in the Age of Indulgence(邦題)ドーパミン中毒」は2021年8月に発刊され、ニューヨークタイムズのベストセラーになりました。
性的依存や薬物中毒など、ちょっとヘビーで生々しい特異な事例から本が始まるため、最初は抵抗を覚えるかもしれません。しかし、読み進めるにつれて、快楽と苦痛の脳科学的なメカニズムの紹介、さらには、依存症や中毒からの克服にとどまらず、私たちが快楽と苦痛のより良い健康的なバランスを見つけるためにどうすればよいのか、広く私たちの人生に教訓を与える内容が展開されていきます。
レンブケ自身の性癖や、レンブケの母親や子供たちとの関係、患者たちとの関わりなど、実経験に即した深い示唆があり、個人的には、最後の2章(8章「Radical Honesty」、9章「Prosocial Shame」)が特に素晴らしいです。
なお、私は本書も英語のオリジナルを読んでおり、日本語版は読んでいないため、日本語版との表現の違いなどについてはご了承下さい。
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痛みを避け、快楽を求め続ける私たち
中毒や依存症という言葉を聞くと、私たちは、薬物やギャンブル、アルコール依存症のような人たちを真っ先に頭に思い浮かべますね。しかし、そこまで深刻ではなくても、私たち自身も、何かに依存しすぎていないでしょうか?
例えば、スマホをいじりすぎたり、ゲームしすぎたり、食べすぎたり、飲みすぎたり、つい何かを買いすぎたり、あるいは働きすぎたり、何かを過剰におこなっていて、知らないうちに抜け出せなくなっているようなことはないでしょうか?
私たちの世界は、かつてのモノが不足する世界から、モノやサービスがあふれる世界へと大きく変化しました。私たちに刺激を与えてくれるモノの数や、種類、そしてその刺激が年々拡大していく様は驚異的でさえあります。そして、気に入ったものがあれば、それを手に入れるまで長く待つ必要ももはやなくなり、欲しいものをその日のうちにワンクリックで手に入ることさえできるようになりました。
また、農業や製造業や家事など、これまで時間がかかっていた仕事が機械化、効率化されたことで、私たちはかつての世代より多くの余暇の時間をもつようにもなりました。逆に言うと、時間を持て余すようにもなりました。
特にスマートフォンやインターネットは、そのような私たちが持て余している時間に入り込み、絶え間なくドーパミンを供給します。ドーパミンは、あらゆる行動の中毒性に関連する神経伝達物質ですが、たくさんのドーパミンが放出されるほど、またドーパミンの放出が速いほど、その中毒性は高くなります。
私たちは、どこに向かおうと意識するでもなく、つい、つかの間の気晴らしや即効的な快楽を求め、多くの時間を費やし、気が付くとそこから離れられなくなっているのです。
Feelin’ good, feelin’ good, all the money in the world spent on feelin’ good.
~ Levon Helm (The Band)
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楽しさと苦しさのシーソー
私たちの脳は、喜びと痛みを重なり合う領域で処理しています。さらに、それらは、まるで天秤かシーソーのようにバランスを取ろうと働いています。
つまり、快楽を受け過ぎるとその反動として苦痛が生じ、苦痛を受けると快楽が生じます。快楽と苦痛はつねにバランスを保ち、平衡であろうとします。そして、どちらか一方に長く傾くことを避けようとします。そのため、バランスがどちらかに傾くたびに、自己調整システムが働き、バランスを再び水平に戻そうとします。この自己調整システムは強力で、意識的な思考や意志の働きは必要ありません。反射的にただ起こるのです。
著者のレンブケは、この自己調整システムを、シーソーの快楽側にある重さを打ち消すために、反対側の痛み側で飛び跳ねる小さなグレムリン(いたずら好きな寓話上の生き物)に例えています。つまり、このグレムリンがしているのは、ホメオスタシス(恒常性)と呼ばれる働きです。
私たちには皆、2枚目のチョコレートが欲しくなったり、居酒屋で締めの1杯を何回も繰り返したり、快楽がいつまでも続いて欲しいと思う経験があるはずです。その「欲しい」と思う瞬間は、脳の快楽のバランスが苦痛側に傾いている状態なのです。
例えば、快楽刺激によって、私たちのシーソーははじめに快楽側に大きく傾き、私たちに大きな快楽を与えてくれます。しかし、快楽刺激に繰り返しさらされると、快楽側へのシーソーの傾きは徐々に弱く短くなっていき、その反動としておきる苦痛側へ傾きがむしろ強く長く早くなっていきます。
つまり、短期的な快楽をもたらす刺激を長く繰り返し受けると、同じ快楽を感じるためのハードルが高くなるのです。快楽が繰り返されるうちに、グレムリンはより大きく、より速く、より多くなり、同じ快楽の効果を再び得るためには、より多くのより強い刺激を欲するようになるのです。また、それと共に、痛みに耐える能力も低下していきます。
私たちの社会は、快楽を求めるだけでなく、苦しみや痛みを避けたり抑えたりして、快適さを増すことにも長く取り組んできました。その結果、私たちはちょっとした不快感にも耐えられなくなってきています。
そのため、人を少しでも不快にさせないことが最優先されるちょっと不思議な社会になってきています。
例えば、親たちは、子どもにできるだけ苦しみや痛みを与えないように育てます。過保護にすることで、子どもたちは逆境を恐れるようになりました。偽りの誉め言葉で自尊心を高めた結果、子供たちは、根拠のない自信だけ伸ばし、自分自身の欠点を見ることができなくなりました。多くの親が、子どもたちの心に傷を残すような言動をすることを恐れて避けた結果として、子どもは後年、精神的に苦しみ精神疾患になる場合さえあります。
医療の世界でもできるだけ痛みを避けて治療する傾向があります。適度な痛みは、自然が私たちに与えてくれた、生き抜くための大切な道具であるにもかかわらずです。
喜びがなければ、私たちは飲んだり食べたり、子孫を残すこともできません。痛みがなければ、私たちは自分の身を守ることができません。
しかし、私たち人間は、快楽を追求し、苦痛を避けるという課題にあまりにもうまく対応しすぎました。その結果、私たちは世界を欠乏の場から圧倒的に物資的に恵まれた場へと変える一方で、不快から目をそらし、決して満足することがなく、より多く、より強く、より早く、心奪われる何かを常に追い求めるようになったのです。
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シーソーのバランスを取る
では私たちはどうすればよいでしょうか?
まず快楽を断つことが重要です。もちろん簡単ではありません。しかし、快楽を継続して断つことで初めて、脳の快楽の配線が少しづつ変わっていくのです。
また、シーソーの痛み側を押してバランスをとることで、より持続的で健康的な喜びを得ることができるようになります。
この考えは新しいものではなく、古代の哲学者たちも同じように述べています。例えば、ソクラテスは、2千年以上前に、苦痛と快楽の関係について次のように考察しています。
人が快楽と呼ぶものは、なんと奇妙なものだろう。そして、その反対語だと考えられている痛みと、どれほど不思議な関係にあることか。しかし、もしあなたが一方を求め、それを手に入れたなら、もう一方も手に入れることができるだろう。片方が見つかれば、もう片方も後からついてくる。だから私の場合は、足枷を付けられた痛みの後に、快楽がやってきたように思えるのだ。
私たちは皆、苦痛が快楽をもたらす体験をしたことがあります。病み上がりに気分が良くなったとか、きつい運動をした後に気持ちが晴れ晴れしたとか、痛みが喜びの代償であるように、喜びは痛みに対する代償なのです。ホルミシス療法にあるように、少量から中程度の有害な刺激や痛みは、体によい働きをするのです。
痛みを追求することは、喜びを追求することよりもはるかに難しいです。痛みを避け、快楽を追求しようとする人間の本能に逆らうからであり、強い意志が必要だからです。
しかし、私たちがより良い人生を送るためには、適度な苦痛を求め、それを人生に招き入れなければなりません。即時的な快楽によるドーパミンではなく、意志の力によりドーパミンを健全に生み出すことが必要なのです。
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厳格なまでの正直さ:Radical honesty
本書の第8章「厳格なまでの正直さ:Radical honesty」は、この本の中で私の心に最も響いた章でもあります。
著者のレンブケは、「厳格なまでに正直であること」、「自分に偽りや隠しごとがないこと」が、患者が中毒から回復し、心身ともに健康を維持する上で重要だと述べています。そして「正直であること」は、中毒や依存症から回復するために有効であるだけでなく、私たちがより良い生活を送る上でも核となるのです。
「正直であること」は痛みを伴います。「正直であること」の反対は「嘘をつくこと」ですが、自分自身に嘘をつくことで、私たちは恐ろしく簡単に痛みを避けることができます。嘘は習慣となり、無意識に大量の小さな嘘を自分に信じ込ませ続けます。そして、何としてでも痛みを避け、楽な道を選択する思考回路と行動が定着していきます。
自分自身に完全に正直であることは痛みをもたらす一方で、次のようなメリットをもたらします。
第1に、自分自身の考えや行動をより正確に見させてくれます。今までに見えていなかった自分、自分では気付かなかった無意識の自分をも見せてくれるでしょう。正直になることで、今まで知らず知らずのうちに隠していた自分や、自己否定していた自分が見えるようになるからです。正直であることで快楽と苦痛の天秤も見えるようになり、バランスを取るように行動を変えることができるようになります。
第2に、正直であることは、人との関係を育てます。正直になり、自分の弱みでさえ人に見せられるようになることで、人を引き寄せるからです。また、自分の弱みを受け入れることで、人の弱みも受け入れられるようになります。
著者のレンブケは、音感とセンスがからっきしなく、ピアノが全然上達しない当時5歳の娘と映画「ハッピーフィート」を見に行き、娘に「私マンブル(主人公の音痴なペンギン)みたいかしら?」と問いかけられました。
レンブケは少し考えた後で、「そんな事ないわよ」と嘘で返すのではなく、「そうね、マンブルそのものね」と自分の心に正直に答えたところ、娘から大きな笑顔が返ってきました。自分に正直になると共に、娘のありのままを認めることで、偽りのない関係を築くことができたのです。
第3に、自分に正直であることで、自分自身に責任を持てるようになります。逆に自分に正直になれない人は、自分に完全に責任をもつことができません。嘘をつき、被害者意識が強く、何事もうまくいかないことは人のせいにします。人のせいにしている限り、私たちはバランスを回復することができません。
これにはメンタルヘルスなど専門家側にも問題があります。患者への同情心や慰めの気持ちが強すぎて、症状の原因を周囲の人や環境のせいにしてしまうのです。それが、患者の被害者意識を増強させ、行動を起こす力をむしろ弱めてしまいます。同情するだけのカウンセラーがいますが、自分に責任を持てない限り、いつまで経っても回復することはできないのです。
第4に、正直であることは周囲に伝染していきます。一方で嘘も周囲に伝染していきます。私たちが周囲の人たちとの関係や社会をどうしたいかは私たちのあり方次第なのです。
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最後に
この本では患者や著者自身の数多くのエピソードを紹介しています。印象に残るエピソードがいくつかありますが、その1つを最後に紹介して今回は失礼します。
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2007年、ドレイク(Drake)は医大の1年生でした。友人たちとのパーティーの後、深夜帰宅する途中で、酒気帯び運転で警察に捕まりました。基準をやや上回るアルコールが検出されました。
飲酒運転の記録が残ることは、将来、医者としてキャリアを形成しようとする医大生にとって、大きなマイナスです。知り合いから絶対に記録を将来に残してはいけないとアドバイスを受け、5,000ドルを払い、弁護士を雇いました。雇った弁護士からは、きちんとした身なりで出頭し、証言台では裁判官に問いただされても「罪は犯していません(Not guilty)」とだけ言うように伝えられます。ドレイクは、弁護士に従い、そのように答えるつもりでした。
しかし、証言の日、尋問の時間が近づき、ドレイクはそれまでの人生を振り返ります。小さいころ父親に嘘をついて、嘘は絶対に良い結果をもたらさないと言われたことを思い出します。
証言台に立ち、裁判官に向き合い、ドレイクは考えを変えます。ドレイクは裁判官の問いかけに対して「罪を犯しました(Guilty)」と答えたのです。裁判官はびっくりして、再度問いかけ直しましたが、ドレイクの答えは変わりません。ドレイクの運転免許は剥奪されました。
翌年、何十時間もの飲酒運転に関する義務講習に、バスを使って何時間もかけて通い続けた末に、ドレイクは運転免許を取り戻すことができました。しかし、それだけは終わりませんでした。医師免許取得の際にも同じことを繰り返さなければなりませんでした。
しかし、ドレイクは、証言台で嘘をつかなかったことを全く後悔していません。嘘をつかなかったことで、一生付きまとうかもしれない隠しごともなくなりました。
今ではドレイクはほとんどお酒を飲みません。より、自分に正直になり、ありのままの自分に向き合えるようになったと感じています。