サポルスキーは、私たちの行動のすべては過去の出来事によって決定づけられていて、そこに自由意志はないと主張します。確かに、そう考える方が、思いやりや優しさをもって、他人と接することができるようになるかもしれません。しかし、それでもなお、自分には自由意志があると信じた方が自分の人生はうまくいくと思うのです。
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以前、スタンフォード大学の生物学・神経学・脳神経科学の教授ロバート・サポルスキー(Robert Sapolsky)が書いた2017年発刊の書籍「Behave:The Biology of Humans at Our Best and Worst(邦訳)行動:人間の最高と最低の生物学」を紹介しました。すこし難しい本ですが、いかにして私たちの行動が起きるかを詳細かつ様々な視点や時間軸から説明しているこの本を私はとても気に入っていて、今でも時々読み返しています。
今回紹介するのは、そのロバート・サポルスキーが書き、2023年10月に発刊された「Determined: Life Without Free Will(邦訳)決定:自由意志のない人生」です。こちらもすこし難しい本ですが、ようやく読み終えることができました(笑)。
なお、現時点(2024年2月)で、どちらの書籍も邦訳版は発刊されていません。
実は、今回紹介する最新作「Determined」の特に前半部分は、前作「Behave」とよく似た構成で進んでいきます。
サポルスキーは、前作で、私たちの行動には、神経伝達物質、ホルモン、遺伝子、環境、文化など様々な要素が複雑に影響していることを説明しました。今作では「人間には自由意志がない」という主張が一貫したメインテーマとなっていて、それを裏付ける説明をこれらの様々な要素に織り交ぜながら進めていくのが前作と違うところです。
サポルスキーは、私たちが取ろうとする行動は、すでに過去に起きたことに決定づけられていると主張します。これは、決定論(determinism)と呼ばれますが、彼はいわゆるハード決定論者(hard determinism)で、人間には自由意志が存在せず、決定論と自由意志は両立しないと主張するハード非両立主義者(hard incompatibilism)です。
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0.3秒前
私たちの行動は、コンマ数秒前に起きたことによって決定づけられます。
1980年代初め、神経学者ベンジャミン・リベット(Benjamin Libet, 1916 – 2007)が、脳波計(EEG)を使って脳活動をモニターした画期的な実験があります。
私たちが意識して意思決定できるのは運動を開始する約0.2秒前です。しかし、リベットらは、運動を開始する約0.55秒前から頭皮に準備電位(readiness potential)と呼ばれる電位が発生することを発見しました。
つまり、この実験結果によると、私たちが「何かを決断した」と意識する約0.35秒前に、脳がその動作をすでに決定していたことになります。これにより、リベットらは、人間には自由意志がなく、私たちがせいぜいできるのは、脳が命令した行動を0.2秒前に拒否するかどうかを決めることだけだと主張しました。(1)
この発見は、研究者たちに大きな衝撃と影響を与え、以降、人間の自由意志に関する数多くの実験結果が発表されました。
その後、画期的なfMRI(磁気共鳴機能画像法)が研究に利用可能となりました。リベットの発見から25年後、神経科学者のジョン・ディラン・ヘインズ(John-Dylan Haynes, 1971 -)たちは、なんと、私たちの行動は、意識領域に入る10秒前までに、前頭前皮質(prefrontal cortex)と頭頂皮質(parietal cortex)の脳活動で命令化されることを発見しました。
つまり、私たちの意識に入るずっと前から、行動の準備をする高レベルのネットワークが脳内で働き始めるのです。
ヘインズ自身もこんなに早く脳が準備を始めることは事前には予測してはいませんでした。彼は、人が意思決定をしていると感じる時点よりもずっと前の脳の活動によって意思決定がなされ、そこには自由意志が働く余地はほとんどないと述べています。(2)
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数秒前から数分前
私たちの行動は、数秒前から数分前に起きたことによっても決定づけられます。
よく引用される研究ですが、被験者に様々な社会政治的トピックについて、例えば、「1から10のスケールで、この声明にどの程度賛成ですか?」というように、自分の意見を述べてもらう実験があります。
この実験を行っている際に、嫌な臭いのする部屋に座っていた被験者は、臭いのない部屋にいた被験者に比べて、ゲイ男性に対する許容度が低下しました。同様の研究結果は数多くありますが、不快な臭いが道徳的判断に影響を及ぼしているためです。これには、島皮質(insular cortex)と呼ばれる脳領域が関与しています。
島皮質は、腐った食べ物の匂いや不快な味によって活性化され、食べ物をすぐに吐き出させたりすることで、食中毒などから私たちの身を守っています。
しかし、島皮質は、匂いや味だけの嫌悪感でなく、私たちが道徳的に抱く嫌悪感にも反応します。つまり、島皮質は、これらを混同してしまうのです。そして、いったん活性化されると、島皮質が恐怖と攻撃性の中枢である扁桃体(amygdala)も活性化してしまうのです。
臭いや味は一例にすぎません。例えば、私たちは、見た目が良い人や魅力的な人は良い人だという思い込みを無意識にしてしまいます。私たちの脳は、これらの外的環境や外部情報の影響を受けて無意識に偏った判断をしてしまうのです。
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数分前から数日前
私たちの行動は、数分前から数日前に起きたことによっても決定づけられます。
それはホルモンの働きによります。その代表格は男性ホルモンのテストステロン(Testosterone)です。
高レベルのテストステロンは、扁桃体をより敏感にし、攻撃的な判断をより攻撃的にします。脳のある部分におけるテストステロンの量には10倍くらいの個人差がありますが、これは自分ではコントロールできません。
なお、子供ができて父親になると、概してテストステロンのレベルは下がります。
逆に愛情ホルモンや信頼ホルモンとも呼ばれるオキシトシン(Oxytocin)やバソプレシン(vasopressin)といったホルモンは扁桃体を抑える働きをし、寛容さ、共感性、正直さを高めます。
グルココルチコイド (glucocorticoid)は、ストレス下での行動に影響を与え、より衝動的、より自己中心的な判断を引き起こします。もし昨日上司に嫌味を言われていなければ、今日に引きずるほどのストレスを感じるようなこともなく、結果として私たちが今日下した判断や行動も、もしかしたら全く違うものになっていたかもしれないのです。
ここに紹介したホルモンはごく一例に過ぎません。合計75種類以上あるホルモンが私たちの行動に様々な影響を及ぼします。
ホルモンの分泌量やその受容性は、お母さんのおなかの中にいるときから、また、生まれてきた両親の社会的な立場やしつけの仕方、大きく成長するまでの生活環境によって大きく影響されます。
そして、私たちは自分では、これらの要因をほとんどコントロールできないのです。
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数週間前から数年前
私たちの行動は、数週間前から数年前に起きたことによっても決定づけられます。
PTSD(Post Traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)は扁桃体を大きくし、恐れや心配に対する反応を敏感にします。慢性的なストレスは、副腎(Adrenal gland)を拡大させ、より多くのグルココルチコイドを排出します。
長期間におけるうつ状態は、学びと記憶を司る海馬(hippocampus)を小さくしていきます。逆にエストロゲン(Estrogen)の増加や、定期的な運動は、海馬を増強します。
私たちの行動は、数週間前から数年前に、どのような生活を送っていたか、食べることさえやっとの生活を送っていたのか、愛情にあふれた裕福な家庭で恵まれていたのか、ブラック企業で心身をすり減らして働いてきたのかなど、様々な生い立ちや成り立ちによって大きく影響されるのであり、これらは自分ではコントロールできないのです。
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青年期と幼少期
私たちの行動は、青年期と幼少期に起きたことによっても決定づけられます。
計画立案、意思決定、感情の制御などの実行機能に関与する前頭葉(frontal cortex)は、人が25才位になるまで成熟せず、生まれてから変化し続けます。
若者たちが時に向こう見ずで衝動的な行動を取るのは、この前頭葉が成熟しきっていないからです。前頭葉は、人間が最後に発達を終える脳領域で、遺伝子に最も依存せず、25年間をどのような環境で育ち、どのようなしつけや教育を受け、どのような仲間とどのような経験をしてきたかに大きく依存します。
さらに幼少期までさかのぼると、前頭葉だけでなく、ほとんど全ての脳領域が発達しきっていません。共感する能力や、自分を抑制する能力も、この時期の育ち方が影響するのです。
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母親の胎内
私たちの行動は、母親の胎内にいるときに起きたことによっても決定づけられます。
私たちはどの家庭に生まれるかもコントロールできず、生まれるまでの9カ月間、誰の子宮で過ごすかもコントロールできません。
環境が私たちに与える影響は生まれる前からすでに始まっているのです。私たちが子宮にいる間に母親が受けるストレスや、栄養素、環境要素は、私たちが成人になってからの脳機能に影響を及ぼすのです。
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遺伝子
私たちが生を受ける子宮を選ぶことができないのと同じように、親から受け継ぐ遺伝子も選ぶことはできません。
今まで述べたように、神経伝達物質やホルモンは、私たちの行動に大きな影響を及ぼしますが、これらのメッセンジャーのほとんどはタンパク質です。これらを生成したり分解する酵素もタンパク質で、受容体もタンパク質です。
遺伝子はタンパク質の設計図になります。しかし、レシピが料理をするわけではないように、遺伝子自体が何かをするわけではありません。環境が遺伝子のスイッチをオンにしたり、オフにしたりするのです。
例えば、ストレスの多い危険な都市に住んでいると、副腎から分泌されるグルココルチコイドのレベルが慢性的に上昇し、扁桃体のニューロン内の特定の遺伝子が活性化され、それらの細胞がより興奮しやすくなります。
DNAのうち、遺伝子を構成しているのは約5パーセントにすぎず、残りの95パーセントは、さまざまな環境によって調整されるオンとオフのスイッチです。つまり、DNAの大部分は遺伝子そのものというよりも、むしろ遺伝子を制御するシステムで成り立っているのです。
同じタンパク質でも、環境が異なれば、その働きは違ってきます。環境に影響されるのです。
DNAの進化も、遺伝子の進化というよりもむしろ、環境に対する遺伝子の制御システムの進化なのです。
遺伝子が行動に及ぼす影響は比較的軽微ですが、とはいえ、これらの行動への影響はすべて、自分で選んだわけでもない遺伝子が、自分で選んだわけでもない幼少期との相互作用することによって生じているのです。
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何世紀も前から何百万年も前
私たちの行動は、何世紀も前、さらには何百万年も前に起きたことによっても決定づけられます。
私たちは、先祖が通ってきた道を通るのです。私たちが生を受けた場所や文化の違いによって、私たちが大人になってからとる行動は劇的に異なります。個人主義の国と集団主義の国に生まれた人たち、農耕民族、狩猟民族、遊牧民族では、考え方や行動のパターンが異なります。
熱帯雨林に住む人たちと砂漠に住む人たちの文化も異なります。
熱帯雨林に住む人たちは、多神教的な宗教を生み出す傾向があり、砂漠に住む人たちは一神教的な宗教を生み出す傾向があります。そして砂漠に住む人たちの方がより攻撃的です。
これはおそらく、砂漠での生活では、灼熱で極度に乾燥した厳しい環境のなか生き延びることが求められる一方で、熱帯雨林には豊かな自然があり、多種多様の生物が共存して生息しているという生態学的な影響を反映しています。
私たちが生まれてきた場所や文化は、私たちの価値観や思想や行動に大きな影響を及ぼします。しかし、私たちはそれらをコントロールできないのです。
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シームレス
つまり私たちの行動は、コンマ数秒前の出来事に決定され、それは数秒前の出来事によって決定され、さらに、数分前、数時間前、数日、数週間、数年、数世紀、さらには人間の進化の歴史をさかのぼり、とぎれのないシームレスな過去によって支配されていて、そして、私たちはこれらのすべてをコントロールできないのです。
このとぎれのない時間の流れがもたらす影響は、不運な遺伝子変異を持つと、不運にも幼少期に逆境の影響を受けやすくなり、さらに不運なことに、残りの人生も、他の恵まれた人たちよりも少ないチャンスしか与えられない環境で過ごすことになることを意味します。
稀にそのような人たちにもチャンスが訪れるかもしれませんが、不幸にもそのような稀なチャンスから何かを得ることができないように育ってしまうのです。
幼少期に受けた影響を1つの軸に圧縮し数値化したものとして、ACE(Adverse Childhood Experience:逆境的小児期体験)があります。ACEスコアは、虐待、両親の離婚、育児放棄、中毒などの逆境的経験項目の1つ1つに対して1点が与えられ、最も不運な子のスコアは10点に近づき、最も幸運な人生を送る子は0点となります。
ACEスコアに関して、がく然とするような発見があります。
ACEスコアが1点高くなるごとに、暴力、認知力の低下、衝動制御の問題、薬物乱用、早期妊娠、危険なセックスなどの危険行動、うつ病や不安障害に対する脆弱性など、成人後の反社会的行動の可能性がおよそ35%増加するのです。さらに、健康状態の悪化により、早死にすることさえあります。
180度ひっくり返してこれを見てみると、子どもの頃、家族から愛され、近所に犯罪はなく、安全だと感じ、良いロールモデルが存在し、家族は精神的に健康で、社会的経済的地位に恵まれたRLCEスコア(Ridiculously Lucky Childhood Experiences:バカ幸運な小児期体験)の高い人たちは、ACEスコアが高い人たちとはまったく違う人生を歩むのです。
そして、これらのスコアを私たちは自分でコントロールできないのです。
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さいごに
サポルスキーは、自由意志を信じる人は、映画の最後の3分だけを見てすべてを理解しているつもりになっているようなものだと言います。彼は、私たちの行動は、すでに過去に起きたことに決定づけられていて、人間には自由意志は存在しないと主張します。
私はサポルスキーのファンですが、それでもなお、私自身は、人間には自由意志がある、少なくても、自分には自由意志があると信じたいです。サポルスキー自身も、私たちには自由意志はないが、たとえそれが幻想であっても、自由意志はあると信じる方がうまくいくかもしれないと述べています。
一方で、日本で、そして世界中で、不遇な人生を送るほとんどの人たちは、その人のコントロールを超えたところで、そのような不幸な結果にたどり着いてしまっています。その結果をすべてその人のせいにして責任を押し付けてしまうのはあまりに酷かもしれません。そのような人たちを憎んだり、バカにしたり、冷遇するのも酷かもしれません。
この本を読むことで、私たちの行動のほとんどが自分のコントロールを超えたところで決定されると理解し、少なくても、より思いやりや優しさをもって、他の人たちと接することができるようになるかもしれません。
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参考文献
(1) Benjamin Libet, Curtis A. Gleason, Elwood W. Wright & Dennis K. Pearl,“Time of conscious intention to act in relation to onset of cerebral activity (readiness-potential). The unconscious initiation of a freely voluntary act”, Brain, Volume 106, Issue 3, Pages 623–642, 1983/9.
(2) Chun Siong Soon, Marcel Brass, Hans-Jochen Heinze, John-Dylan Haynes, “Unconscious determinants of free decisions in the human brain”, Nature Neuroscience, 11, 543–545, 2008.