消費拡大型資本主義の次に来る持続可能な社会の仕組みとして、「脱成長(Degrowth)」や「ポスト成長(Post Growth)」という言葉が聞かれるようになりました。この2つは共通する概念を示す言葉ですが、若干の違いもあります。今回はこの2つの言葉の意味について紹介します。
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はじめに
今年も暑い夏がやってきました。
毎年のように、、、というか、ここ数年夏になると必ず、どこそこで〇月の最高気温を更新とか、十年に一度の暑さといったニュースを目にします。
日本は東南アジアの国々のような気候に近づいていくのでしょうか?日中は屋外で活動をすることを避け、朝夕に活動するようになっていくのでしょうか?
今年の梅雨はしとしと長く降り続くような雨は少なく、亜熱帯のスコールのようなゲリラ豪雨が多かったように思います。むしろ夏の間だけで見れば、すでに日本の気温の方が、東南アジアの多くの地域よりも高くなっています。
以前も書いたように、この気候変動や異常気象は、人間の活動、つまり私たち自身が作り出していることで多くの専門家の意見が一致しています。しかし、水分をこまめに取りましょうとか、日中は屋外での活動を避けましょうといった熱中症対策を聞くことはあるものの、二酸化炭素の排出を制限しましょうとか、仕事のあり方や生活スタイルを変えましょうなどの根本的な対策を勧める言葉を耳にすることはほとんどありません。
現代社会の基盤となっている資本主義は、私たちに消費し続け、経済を拡大し続けることを求めます。しかし、残念ながら、物質的に限りある地球で、無限の成長を実現することは不可能です。
問題は、資源には限りがある一方で、私たち人間の想像力は無限だということです。有限の世界に暮らしていながら、無限のイマジネーションに支配されて何でも実現できると勘違いしているのです。さらなる問題は、私たちの脳は自分たちに都合の悪いことは見て見ぬふりをするようにできていることです。
環境負荷を与え続けながら、人間に快適な地球のエコシステムを維持することには限界があります。つまり、経済成長には限界があり、この消費拡大型資本主義にも限界があります。
これまでも人類の長い歴史の中で、様々な社会システムの変遷があったように、いずれ問題がどんどん大きくなるにつれて、少しづつ危機感が広がっていき、やがてある限界点に達した時点で、今の形の資本主義も別の社会システムに置き換わるのでしょう。しかし、それでは時遅しの可能性があります。
消費拡大型資本主義の次に来る持続可能な社会の仕組みとして、脱成長(Degrowth)やポスト成長(Post Growth)という言葉が聞かれるようになりました。脱成長とポスト成長は、共に根本的な変革の必要性を説く、共通する部分が多い言葉です。今回は、この2つの言葉の意味について説明していきます。
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脱成長:Degrowth
脱成長(Degrowth)を一言で言えば、持続可能な生態系と人類の繁栄のために、経済成長を目指さないことですが、専門家によって少しづつ異なる解釈がなされています。
2015年発刊の「DEGROWTH : A vocabulary for a new era(邦訳)脱成長:新しい時代の語彙」には次のように書かれています。(1)
脱成長にはさまざまな解釈があります。
永遠に経済を成長できるというのは幻想で、成長には限界があると考える人もいます。
経済は停滞期に入っていて、成長なしで繁栄を維持する方法を見つけるべきだと考える人もいます。
また、資本主義の飽くなき拡大の追求と利己主義を捨て、全員が自らに制限を設けることで、真に平等で持続可能な社会を実現すると信じている人もいます。
さらには、単に「脱成長」が、自分の価値観やライフスタイルに共通する考えだというだけの人もいます。脱成長をひとつの限られた定義に収めることはできません。
脱成長は、さまざまな思想や、想像、行動様式を包括する枠組みです。脱成長は、急進的で批判的ではあるものの、様々なアイデアと会話と協業のネットワークでもあります。この定義の緩さと汎用性が脱成長の強みです。
おそらくこれが脱成長という言葉の最も包括的な定義になるでしょう。
脱成長をテーマにした研究、意識向上、企画などをおこなう学術団体である「リサーチ&デグロース:Research & Degrowth」は、脱成長を「生産と消費を持続可能なレベルに低く抑え、それぞれの地域の人たちがその生態学的手段の範囲内で生活し、オープンで地域化された経済と、新しい形の民主主義を通じて、より公平に資源を分配し、幸福度を高める」と表現しています。
以前紹介した書籍「Less is More: How Degrowth Will Save the World(邦題)資本主義の次に来る世界」の著者であるジェイソン・ヒッケル (Jason Hickel)は、その著書の中で脱成長を「過剰なエネルギーと資源の利用を計画的に減らし、生物界とバランスの取れた安全で公平な世界に経済を戻していくこと」と書いています。彼は、脱成長はGDPを縮小させることではなく、GDPを私たちの繁栄のバロメーターとして使うのをやめることだと言います。
フランス出身の経済学者で、スウェーデンのルンド大学経済経営学部研究員のティモシー・パリック(Timothée Parrique)は、脱成長の歴史を詳細に調べた結果、「脱成長」という言葉が、時間の経過とともに、次の3つの側面を追加しながら進化してきたと指摘します。(2)
タイプ1:「縮小」という意味の脱成長
タイプ2:「解放」という意味の脱成長
タイプ3:「目的地」としての脱成長
タイプ1の「縮小」という意味の脱成長は、最も基本的かつ広く認識されている意味の脱成長で、有限な地球環境において無限の経済拡大は不可能なので、私たちの経済活動や生産活動、資源利用を縮小し、環境負荷を低減しなければならないことを意味しています。
タイプ2の「解放」という意味の脱成長は、特定の慣習やイデオロギーからの解放という意味の脱成長で、「進歩」を「拡大」と結び付ける考え方からの脱却です。タイプ2の脱成長の実現によって、人類の繁栄や発展を経済成長と結び付けない考え方や価値観が浸透しない限り、タイプ1の脱成長を実現することはできません。つまり脱成長社会を実現しない限り、脱成長は実現できないのです。
タイプ2が現状維持からの脱却という意味であれば、タイプ3の「目的地」は、脱成長の結果たどり着く場所であり、将来のあるべき姿です。
つまり「脱成長」は、手段でもあり、新しい価値観やイデオロギーでもあり、目的地でもあり、その目的地にたどり着くためのプロセスでもあるのです。
世界で最も影響力のある気候変動に関する評価を行っている政府間パネル「IPCC: Intergovernmental Panel on Climate Change」は、2022年2月に発表したレポートで、初めて「脱成長」という言葉を使いました。
経済成長を環境への影響から分離し、環境を劣化させることなく経済成長を実現する「デカップリング:Decouping」や「グリーン成長:Green Growth」を前提にした「エコモダニズム:Ecomodernism」と対比して脱成長に言及し、GDPは幸福度を測る指標ではなく、経済成長を意図的に抑え、再配分を優先することで持続性を実現すると紹介しています。
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ポスト成長:Post Growth
では次に、ポスト成長について見ていきましょう。ポスト成長はビヨンド成長(beyond growth)と呼ばれることもあります。ポスト成長は、成長の後に来るものという意味で、継続的に経済を成長させるという要求や前提から私たち自身を切り離した世界のことです。
必ずしも経済成長が悪いと言っているわけでありません。貧困にあえぐ地域で苦しむ人たちの経済的状況は改善されなければなりません。経済成長はある程度までは有益な効果を生み出すことができます。しかし、そのレベルを超えると、トータルで見れば、益よりも害が大きいのです。
ポスト成長は、経済成長に頼らない社会を指します。成長しているから良いとか、成長していないから悪いとか、何が成長していて何が縮小しているかという関心に依存することをやめるのです。
ポスト成長インスティテュート(Post Growth Institute)は、ポスト成長を包括的な用語として次のように定義しています。
ポスト成長は、経済成長の後に来る世界の見方とあり方を表す言葉です。
経済成長を志向する現在社会でも多くの生き方があるように、ポスト成長社会にも様々な生き方があります。そして、その多くは実はすでに存在していて、わたしたちに道筋を示しています。
彼らのホームページでは、ポスト成長百科事典(The Post Growth Encyclopedia)と題して、そのようなすでにある取り組みやアイデアの数々を紹介しています。つまり、ポスト成長の未来はひとつではなく、同時に実現できる多様な未来があるということです。
ポスト成長社会には、有限な地球との関係において、良い成長と悪い成長を区別し、生態学的限界内の範囲で、人の可能性と幸福を実現させたいという思いがあります。終わりのないお金の追求や、結果を顧みない搾取的な成長の追求とは対照的に、生命を維持するために必要なものを経済と社会の中心に置いて活動します。
お金に集中するのではなく、自然に循環させる経済、企業の貪欲さよりも人々のニーズを重視する経済、生命を支える地球から奪うよりも多くを与える経済とするのです。
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脱成長とポスト成長という言葉の良い点と悪い点
ポスト成長という言葉からは「前進」とか「次なるもの」など、なんとなく前向きな印象が感じられます。一方で、脱成長という言葉には「後退」や「停滞」などの後ろ向きなイメージを持たれてしまうかもしれません。
そのため、脱成長よりもポスト成長を使うことを好む活動家や研究者たちがいます。先ほど紹介したジェイソン・ヒッケルも、その著書の中では「脱成長」という言葉を使用しているにもかかわらず、その後の資本主義に関する討論会では「ポスト成長」という言葉しか使っていない理由がここにあるかもしれません。
脱成長という言葉のより大きな欠点は、経済成長と真逆のコンセプト、つまりマイナス成長を志向するものだと多くの人が勘違いする懸念があることです。脱成長はマイナス成長や不況や不景気を歓迎するものでは決してありません。また、不況や不景気が脱成長を意味するわけでもありません。先ほども書いた通り、脱成長とは、経済成長を私たちの繁栄の指標としないというだけです。脱成長も、ポスト成長も、経済成長を物差しとして使用しません。
一方で、ポスト成長という言葉の弱点は、そのメッセージが曖昧なことです。
脱成長は、経済成長は必要ないという明確で強いメッセージを伝えています。しかし、ポスト成長という言葉から、そのようなメッセージを受け取らず、違う種類の経済成長が来ることを期待してしまう人がいるかもしれません。ポスト成長が別の経済発展を検討する扉を開くことになってはなりません。
もう1つのポスト成長の欠点は、それがなにか遠い未来のことのように聞こえてしまうことです。あるいは、すでにその移行が完了し、ポスト成長の社会に入っていると勘違いしてしまう人が出る可能性があることです。その点では、脱成長の方に、危機感や切迫感、未達感が感じられます。
先ほど紹介したティモシー・パリックは、こう書いています。
ポスト成長と言う言葉に結び付けられたアイデアは、多くの場合、脱成長と一致するため、私はそれらを同義語として理解しています。
しかし、これら 2 つの用語が、同じプロセスの異なる段階を表すものして使用されている文献を目にすることは珍しくありません。つまり、経済成長を推進する社会から、脱成長という移行期を経て、ポスト成長に向かうのです。
脱成長は、閉じたドアをこじ開けるためのバール 、経済成長の中毒と戦うプロセスであり、ポスト成長は、成長後または成長を超えた後の、脱成長がが達成された後に起こるすべてのことを指します。
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さいごに
以上、今回は、脱成長(Degrowth)とポスト成長(Post growth)という二つの言葉について紹介しました。次の記事では、ではいったいポスト成長の社会とはどのような社会なのかを紹介します。
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参考文献
(1) Giacomo D’Alisa, Federico Demaria, Giorgos Kallis, “Degrowth : A Vocabulary for a New Era”, Routledge, 2015.
(2) Timothée Parrique, “The political economy of degrowth“, Economics and Finance. Université Clermont Auvergne [2017-2020]; Stockholms universitet, 2019.