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アセットベースのコミュニティ作り:エクアドルの女性たちの事例

  • 投稿カテゴリー:社会が変わる
  • 投稿の最終変更日:2025年4月26日
  • 読むのにかかる時間:読了まで9分

アセットベースのコミュニティ開発は、「地域が抱える問題」や「地域にないもの」に焦点を当てるのではなく、「地域にすでにあるもの」に焦点を当てます。今回は、南米エクアドルの先住民の女性たちが、地域の資源と、埋もれかけていた知識を利用することで、地域社会を変えていった事例を紹介します。

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そこにあるものから始まるコミュニティ開発:ABCD

本サイトでは、今まで幾度かアセット・ベースド・コミュニティ・デベロップメント(ABCD : Asset Based Community Developmentによるコミュニティ開発の事例を紹介してきました。

ABCD(資産に基づくコミュニティ開発)とは、コミュニティの中にすでにあるリソース(資産)や強みを特定し、それを活用することで持続可能な開発を推進するアプローチです。

私たちは、つい「コミュニティが抱える問題」「他の人たちは持っているのに、自分たちにはないもの」「地域に足りないもの」に焦点を当て、その穴を埋めて問題を解決しようとしがちです。

しかし、そのような解決策は一時的には効果を見せるものの、長期的には逆効果になります。持続可能な問題解決のためには、「自分たちが持っているもの」「コミュニティにすでにあるもの」に焦点を当てなければなりません。

そして、コミュニティ開発のもう1つの問題は、外部の支援者が活動の中心となることです。

地域が抱えている弱みや問題を解決しようと外部の人間が主体となり援助することで、援助に依存する自立できないコミュニティを作り上げます。また、外部の支援者が地域の問題を定義したり、自分自身の価値観をコミュニティに押し付けることがあります。

ABCDは、そのコミュニティにいる人たちの力を重視します。
地域主導でリーダーシップを育み、すでにそこにあるものを利用して、課題を定義し、対処することを促します。

以下が、ABCDの原則です。

  • 弱みではなく、強みから始める
  • 「欠点」や「ないもの」ではなく、そこに「あるもの」に焦点を当てる
  • 地域の誰にでも、貢献できることがある
  • コミュニティを築くのは関係性である
  • コミュニティの人たちは推進者であり、支援の受益者ではない

今回は、その事例として、南米エクアドルのジャンビ・キワ(Jambi Kiwa)の物語を紹介しましょう。この協同組合の活動は、すでにそこにある資産を幅広く利用した、地域主導型のコミュニティ開発の好例です。

チンボラソ山岳地帯の数十の小さな農村に住む数百世帯の先住民の生活を改善する取り組みの物語であり、また、伝統的な文化、知識、慣習を取り戻し、今日のエクアドルにおいて先住民であることの意味を再定義する物語でもあります。

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ロサの物語(1)

私の名前はロサ・グアマン(Rosa Guamán)、5人の子供がいます。
リクトという町で生まれました。11歳になるまで家族と暮らしましたが、家庭の事情で家を出なければなりませんでした。仕事を求めて海岸の町へ移り、その後8年間、そこで家事労働者として収入を得ました。

しかし、自分のアイデンティティと使命について考え始め、19歳でリクトに戻ることにしました。すると、すぐにリクトの家事労働者の扱いが、海岸で私が受けていた扱いとは全く違うことに気づきます。

リクトでは、家事労働者、そして女性全般に対する扱いはひどいものでした。リクトの先住民女性のほとんどは読み書きができません。学校には先住民の女子は一人もおらず、小学校を卒業した女性はほとんどいませんでした。自尊心が低く、自分になんの価値も感じていませんでした。
家庭内では女性の言葉はほとんど尊重されず、社会全体ではさらにひどいものでした。

「あの女に何があるっていうの?ただのインディオでしょ」といった声もよく耳にしました。リクトからリオバンバまでの公共バスでは、女性は後部座席にしか座れませんでした。さらに悪いことに、メスティーソ(白人と先住民との混血)が乗り込むと、女性は立っていなければなりませんでした。

民族の女性たちは、伝統的に豊富な知識を持っていました。
しかし、スペインの征服により、状況は変わりました。
植民地時代は、チンボラソ州の先住民文化の一部を成していた親族関係や協力関係の多くを破壊し、1960年代まで、先住民コミュニティはほとんどなくなっていました。

女性たちは、部族の知識と資源を使って家族を養う代わりに、NGOから寄付された物資に頼るようになりました。横のつながりは途切れ、縦の支配があるだけでした。

自然が豊かな国に住みながら、自給自足ができないのは屈辱的でした。

私はこの状況に苛立ち、このような不正義と闘う仲間たちを探し始めました。多くの女性が関心を示しましたが、皆、家族を養う必要があったため、過激な行動はとれません。

しかし1974年、エストゥアルド・ガジェゴス神父がリクトに教区司祭として来ると、私たちに教会の活動を通して、仕事を見つけ、生活を変え始めるよう促します。

当初、彼の教えを受け入れることはできませんでした。なぜなら、先住民である私たちにとって、教会は最もひどい差別者で、宗教を利用して農民や先住民を搾取していたからです。
私たちは社会的に低い階級とみなされ、教会のベンチに座ることも許されず、常に床にひざまずかなければなりませんでした。

しかし、ガジェゴス神父は教会のベンチを同じ色に塗り、一列に並べて誰もが平等に座れるようにすることで、私たちの信頼を勝ち取り始めました。

私たちは、女性向けに識字教室を開き、次に編み物教室を開き、伝統工芸にも取り組み始めました。活動は口コミで広がり、ますます多くの女性が参加していきました。

女性組織は成長し、州レベルのキリスト教農村女性ネットワークへと発展します。
私たちは単に技術を学ぶだけでなく、自分たちの物語の主人公になっていきます。

そして1999年には、薬用植物と香料植物の栽培、加工、販売をおこなうジャンビ・キワという協同組合の設立につながります。ジャンビ・キワ(Jambi Kiwa)は、先住民族の言葉で「治癒する植物」を意味します。

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ジャンビ・キワの物語

ロサたちは、すでに忘れかけられている伝統的な薬用植物の栽培を復活させることが、先住民の女性たちに収入をもたらすだけでなく、地域全体を良くする機会になり得ると気付きます。

しかし、女性たちに土地の準備と新しい作物の栽培に時間と労力を割くように説得するのは難しいため、まず、野生の薬用植物を集めることから始めました。集めた植物を、市場に並べることで、地元の植物の薬効を改めて知ってもらうのです。

ロサたちは、その後1年間、女性たちを集め、薬用植物を採集して教会に持ち帰りました。国連からの少額の助成金のおかげで、女性たちから集めた植物を買い取って販売することができました。

2001年4月、ジャンビ・キワは、国営の紅茶会社に乾燥粉砕したハーブを供給するという、初の大きな契約を獲得します。信頼できる買い手が見つかり、当初は毎週5~10キロ程度だった収穫が、毎週末100キロの植物が教会に持ち込まれるようになりました。協会の屋根裏部屋が乾燥した植物でいっぱいになるにつれて、女性たちは自信を深めていきます。

年配者にお金を払って、伝統薬やシャンプー、石鹸の作り方を教えてもらう講座を開くようになると、参加者の女性たちは「ああ、うちのおばあちゃんもこんなことやってたわ」と思い出します。彼女たちは埋もれていた知識を再発見していきます。商品は多角化し、エクアドルのみならず、カナダ、イタリア、アメリカでの販売が実現しました。

ジャンビ・キワは、他の生産者とも連携し、薬用植物生産者全国ネットワークを設立します。
このネットワークは最終的にエクアドルの沿岸部、山岳部、アマゾン川流域の8つの州で構成されるようになります。

彼らは相互訪問を通して、互いに学び合い、関心のあるテーマに関する研修会を開き、顧客を招き、販売を広げることにも成功します。

ジャンビ・キワは、様々な外部団体との関係を構築していきます。それらの中には、ジャンビ・キワの初期の成功に惹かれ、声をかけてきた団体もありました。また、ジャンビ・キワのメンバーから、活動の支援をお願いした団体もありました。

しかし、組織やネットワークが拡大するにつれて難しさも浮き彫りになります。
ロサは、メンバー間でビジョンを維持するための苦労を次のように語っています。

ある時、生産者のグループがジャンビ・キワのメンバーになりたいと言いに来た時のことを思い出します。彼らは毎月の収益がどれくらいになるのか知りたがっていました。私はこう言いました。
「私たちの利益は、単に経済的、金銭的な儲けではありません。学び、訓練し、地域社会全体の多様性を向上させ、より良い食生活を送ることです。」
このビジョンに賛同してくれる人を見つけること、それが重要でした。

ジャンビ・キワは、その社会的なビジョンで支持を集めました。新たなパートナーシップには、アンデス医学学校の拡張資金も含まれていました。これにより、伝統療法士や助産師へのさらなる研修の提供や、学校での薬用植物園プロジェクトの実施が可能になりました。

また、ジャンビ・キワは幅広いボランティアにとって魅力的な活動の場となりました。

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ジャンビ・キワが活用した「すでにある資産」

ジャンビ・キワで最も印象的なのは、そこにすでにある資産・資本を利用して、設立され、成長したという点です。この段階的な発展は、コミュニティに足りないものを外から持ってくるのではなく、既にそこにあるものから始めて広げるという、ABCDの開発プロセスと合致しています。

彼らの活動は、地域開発、世帯収入の増加、そしてそこにいる人たちのアイデンティティの強化に貢献しました。
では、ジャンビ・キワが、
どんな地元の資産、資本が活用したのか、カテゴリー別に見ていきましょう。

1.自然資本(Natural Capital)

自然資本は、ジャンビ・キワが活用した最も分かりやすい資産です。具体的には、土地、気候、そしてシエラ山脈に生育する在来植物などです。女性たちは、これらの地域に既にある自然資本を活用しました。

2.人的資本(Human Capital)

人的資本とは、人が持つさまざまなスキル、知識、経験、健康、時間を指します。

ジャンビ・キワの取り組みの過程で、先住民の知識の価値が内外に認識されるようになりました。
具体的には、薬用植物や芳香植物の識別、栽培、収穫、加工、利用に関する先住民族の知識です。
ジャンビ・キワは、それらを活用し、さらに強化しました。

最初の数年間は、市場や小さなグループ内で植物の効果について話し合うことで、失われつつあった知識を再発見しました。

やがて、ジャンビ・キワはアンデス医学学校を設立し、このプロセスを制度化します。
学校では、長老たちが講師となり、薬用植物や芳香植物の利用に関する知識を伝えます。お年寄りたちは先祖の知識を受け継ぐ貴重な地元の資産でした。
また、研修を受けた人たちが、さらに地域社会の他の人たちを指導することで、新たな人的資本が創出されていきました。

ジャンビ・キワのメンバーたちは、土木建設のスキルも持っていました。
そのスキルを活用し、各メンバーは毎年10日間の労働という形で、インフラ整備など協同組合に貴重な現物貢献をおこないました。外部から資金を求める前に自らの資産を動員する考えは、ジャンビ・キワの文化に深く根付いています。

3.金融資本と物的資本(Financial and Physical Capital)

ジャンビ・キワは、毎週土曜日、農産物を収穫し、市場まで運んで販売します。その収益の10%が貸付基金に積み立てられ、メンバーはそれを種子、フェンス、灌漑用チューブ、その他の農業資材の購入に使用でき、さらなる生産性の向上に役立ちました。

ジャンビ・キワは、組合員が労働力を提供し、資産を協同組合に還元するという取り組みのおかげで、数十万ドルの資金を活用し、設備、車両、建物、土地を増やすことができました。これらの物的資産は、将来的に追加の金融資本を生み出すための資産へと変化しました。

そして、そのベースにあったのは、組合員たちの能力、そして献身的な姿勢という人的資産です。

4.社会資本(Social Capital)

ジャンビキワでは、2種類の社会資本を見ることができます。

1つ目は、信頼関係、相互関係に基づく社会資本であり、地域レベルのグループや親族などです。これは、絆型社会資本とも呼ばれます。

2つ目は、橋渡し型社会資本であり、地域の人たちが、地域外の人たちと持つ関係を指します。

絆型社会資本は、地域の人たちが共通の目的に向けて、意志と資源を結集することを可能にします。ジャンビ・キワという協同組合にそれを結集することで、集荷、加工、販売を共同で行うことが可能になりました。

一方、橋渡し型社会資本は、取り組みに外部資産を動員したり、より広範な政策に影響を与えたりする手段を提供します。これらの外部団体や国際的団体からの協力により、資金と物的資本が増強されました。

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さいごに

コミュニティに「足りないもの」にフォーカスすると、どうしても外部からの支援に頼り続ける形になります。外部からの支援に頼り続ける限り自立できません。いつまでも外部の支援に頼り続けます。

地域社会に「足りないもの」を探すのではなく、地域社会に「すでにある」地域資源を活用した方が、取り組みが持続する可能性が高くなります。今回紹介したエクアドルの協同組合ジャンビ・キワは、コミュニティ主導の開発の顕著な例です。

そして、自立したコミュニティ開発のためには、リーダーの存在が不可欠です。リーダーとは最初の一歩を踏み出す人です。

ロサは徐々に、メスティーソたちが先住民を搾取するシステムの中で生まれてきたことに気づき始めました。これは何世紀にもわたって続いてきたのです。そして、これを変えるためには、全員が団結する必要があることに気づき、行動に移しました。

ジャンビ・キワの取り組みは、一貫して、意志のある先住民族の女性リーダーたちによって推進されてきました。リーダーシップは内部で育まれ、その他の女性たちも自信を高めました。

ロサは、エクアドルの農園制度の下で生まれ育った最後の世代です。特別な教育を受けたわけではありません。しかし、強い意志がありました。女性として、このような大きな社会問題に立ち向かうのは困難でしたが、周囲には、彼女が変化を起こそうとしていることを知り、それを後押しする人たちがいました。

リーダーだけでなく、それを後押しする人たちがいて、変化は実現します。

事業開始以来、ジャンビ・キワは、世界的な金融危機、暴動、窃盗、通貨切り替え、噴火、干ばつ、不満を抱く生産者など、数多くの問題に直面しました。ジャンビ・キワの女性たちは、これらの問題を共有してきました。
会員たちは当事者です。この事業が自分たちのものであり、自分たちが守るべき存在であることを理解していたため、さまざまな困難を前向きに乗り越えることができました。

ロサは、貧しい人たちが自らを助け、自分たちの存在を信じ、経済的・社会的状況を改善できると信じ続け、それを成し遂げたことを誇りに思っています。

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参考文献
(1) Gord Cunningham, “The Jambi Kiwa Story: Mobilizing Assets for Community Development“, Coady International Institute, 2005

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